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人の可能性は不断の努力と学習によって切り開かれる(『荀子』勧学篇)

今回取り上げるのは『荀子』勧学篇からの言葉。

鍥んで之を舎けば、朽木も折れず、鍥んで舎かざれば、金石も鏤むべし
(読み:キザんでコレをオけば、キュウボクもオれず、キザんでオかざれば、キンセキもキザむべし)

『荀子』勧学篇

刻んでいる途中でやめてしまうと、腐った木でさえ折ることはできないが、刻むことをやめなければ、金石でさえも刻みつけることができる、という意味。

努力を続けることの大切さを説いた言葉です。

つまり、途中で努力することを諦めてしまうと、どんなに簡単なことでも達成することはできないが、努力することを諦めさえしなければ、どんなに難しいことでも達成することはできるのだ、ということですね。


荀子は性悪説で知られているため、なんとなくネガティブなイメージを持たれている方もいらっしゃるかもしれません。

しかし、実際の荀子はかなり現実的に物事を見ていた人でした。

孔子が理想とした君子は尊いものだと考えつつも、一般人が目標とするには難易度が高いと考えていたのです。

孔子は歴史や儀礼に詳しい知識人であるだけではなく、音楽や唄を聴いて感動するロマンチストでもありました。


また、長年の放浪生活で培った経験から、他者を慈しみ、忍耐強く指導する懐の深さも持ち合わせています。

本人は謙遜していますが、周囲から見れば彼ほど君子に近い人物はいなかったでしょう。

そんな孔子が理想とした君子像は、戦国の世においては些か理想的すぎました。

人は誰しも初心者であり、間違いを犯すこともあります。

失敗することもあれば、嘘をついてしまうこともあるでしょう。

しかし、それは「まだ真っ白」だから。

何が正しくて、何が間違っているのか。

どうしたらうまくいって、どうしたら失敗するのか。

そういった知識と経験が足りていないだけなのです。

そのため、荀子は元々の才能や性質ではなく、後天的な教育と努力に価値を置きます。

間違ってしまうなら正しいことを学べば良いし、失敗してしまうならうまくいくまで努力すれば良い、ということですね。

そうして後天的に人は学んでいくことで、一歩ずつより良い人物へと育っていくのです。

つまり、性悪説はとてもポジティブな考えなのです。

性悪説という言葉から、人は生まれた状態だと悪なのでルールで矯正しなければならない、といった考えだと誤解されるかもしれませんが、少なくとも荀子にはそこまでの考えはありませんでした。

人の悪をルールで矯正する、という考えに発展するのは、荀子の弟子である韓非子からですね。

というわけで、荀子は孔子の持つ理想像をしっかりと受け継ぎつつも、一方で、人の弱さを理解し、不断の努力による可能性を信じていた人だったのです。

鍥んで之を舎けば、朽木も折れず、鍥んで舎かざれば、金石も鏤むべし
(読み:キザんでコレをオけば、キュウボクもオれず、キザんでオかざれば、キンセキもキザむべし)

『荀子』勧学篇

今回は、努力を続けることの大切さを説いた言葉をご紹介しました。

現実的な視点を持ちつつも、人の可能性を信じていた荀子。

私はそんな荀子が好きです。

『荀子』を読むと、あちこちに努力や学習に関する言葉がでてきます。

弱気になったり、不安になったりしたときに、私に何度も勇気を与えてくれました。

『荀子』には、何かに向けて頑張っている人の背中を押してくれる言葉がたくさん載っています。

機会があれば『荀子』の直接読んでみていただけたら嬉しいです。


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