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【エッセイ】昨今の「分類、区別、ジャンル分け」について思うこと


 「分類、区別、ジャンル分けしたがる」
 一昨年大ヒットしたSEKAI NO OWARIの「Habit」の一節だ。私はこの曲が流行した時期にこのバンドに対する関心が非常に高まったので、いつくらいから好きかを問われた時、2022年頃と答えると「ああ、Habitが好きになったきっかけか。」と納得される。しかし、実は全然違う。好きになったきっかけは本筋と逸れるので割愛するが、正直、私はどちらかというと「Habit」がしっくりこない。
 「分類、区別、ジャンル分け」
 は悪習慣と定義するこの曲。私はこれを悪習慣と言われてしまうと困ってしまうのだ。大好きなバンドだからといって迎合はしたくない。「これは自分にとって最適解ではない」と思う曲があっても良いはずだ。ただ、否定だけで好きなバンドを語るのはあまりに美しくないので先に弁解する。
 私にとってセカオワソングでしっくりくるのは「白昼の夢」と「バードマン」だ。この2曲と「Habit」は明らかに系統が違うのでEnderの方なら少し理解してもらえるだろうか。またどれくらい好きかを示すのに何が適しているかは分からないがライブ円盤を全種類揃えて絶え間なく流し続けるし、Saoriさんの書籍は擦り切れるほど読み、枕元に置いてお守りにするほどのファンである。「ねじねじ録」(Saoriさんのエッセイ集)を読むと「バードマン」は必ず好きになっちゃうはず!と宣伝したいくらいには好き。だけど、それでもあのバカ売れヒットソング「Habit」はしっくりこない!
 「Habit」で言うところの分類、区別、ジャンル分けというのは「隠キャ陽キャ」や「持ってるヤツとモテないやつ」だという。流行やSNSを鑑みると具体的にはMBTI診断やHSP診断、骨格診断、パーソナルカラー診断などを指していると言えるだろう。もしかしたらLGBTQ +や発達障害のADHDやASDなどのアイデンティティや特性に関連するものまでも指しているかもしれない。
 誰かが「自分はこれに当てはまるかもしれない!」というのに気づき、発信する。それに対するコメントは肯定派と否定派にきれいに分かれる。肯定派の人は共感したりあなたってそんな感じすると言ってみたりそんなコメントだ。
 注目すべきは否定派のコメント。否定派の中でもさらに2つに分かれていると感じる。一つ目は「そんなんくだらねえ。」派。これは「分類なんて信じるな。」という分類することそれ自体を疑う人。もうひとつは「その分類に囚われないで。」派。こちらは分類すること自体を疑う訳ではないが「貴方がそれに囚われて生きていくなんて勿体無いわ。」というお節介型だ。「Habit」はこちら側に属すのだと思う。私はこの「自分の可能性を狭める行為よ。」という「優しさ」に納得がいかなかったのだと思う。
 話が大きく変わるように見えると思うが2023年末のMー1決勝の令和ロマンを見ただろうか。つかみの挨拶でくるまさんがケムリさんの髭ともみあげがなぜ繋がっているかの説明(?)をしたのだがその理由がこうであった。
 「顔を、毛でぐるっと囲わないと、自分とスタジオの境目がわからなくなっちゃうんです。」
 「いや、これがなかったら俺、外側にふわーっていかないから。」
 「顔でもんじゃ作ってる?」
 「土手じゃないんだよ。」
 ネタが秀逸であったのは言うまでもないが、私が1番印象に残っているのが冒頭のこのつかみであった。(てか、「顔でもんじゃ作ってる?」ってボケなに!爆笑)あの時の説明がずっと脳裏に焼き付いて離れなかった。
 そして数ヶ月経ち、冷静に思い出せるようになり気づいた。めっちゃ哲学的!と。
 私は自分の分類にすごく興味を持つ。◯◯診断と見れば黙々と取り組んでしまう。なぜか考えてみた。この分類という作業をして私の体の周りに土手を作らないとふわーっと広がっていってしまうからだ。分類は勿体無い派の人からすればその「外側にふわー」はいいのかもしれないが私からすると「外側にふわー」は自分の濃度がどんどん薄まっていく感じがするのだ。「俺たちはもっと曖昧で複雑で不明瞭なナニカ」だからこそ他人と自分の境界すら分からなくなる。そしてもしそれを放置し続けて堰き止めなければもんじゃ焼き屋さんの鉄板の端にある側溝みたいなところに流れ落ちていってしまうのだ。私は「私」を堰き止める確かな何かがないと広がって薄まって落ちて、ゴミになる。 
 私はまだ土手のない未完成のもんじゃ焼きなのだ。
 対して「Habit」を作り上げたSEKAI NO OWARIのメンバーは完成されたお好み焼きなのかもしれない。(←しれっと書いてるけどなんだよこの考察。メンバーが可哀想だろ。もし私がThe Dinnerのライブ参戦してたら喰われてるぞ?)完成したお好み焼きなら上に何か乗せたりかけたりしても安定している。切り込みを入れたら自由自在に形は変わる。壊れた訳ではない。「自分」という枠があり、型取られ、自立している。これからはどれだけそれを大きく広げられるかというところにいるのかもしれない。だから彼らは「分類すること」を自己を狭める「悪習慣」と言ったのかもしれない。ここに万人に評価され続ける「大人」なアーティストと凡人学生リスナーの乖離が表れている。SEKAI NO OWARIは型に囚われず地下にスタジオを自作し、這い上がってきた天才だ。対して私はロールモデルをいつも探し、見つからなければどうしようと迷子になる。見つかったら見つかったで「唯一無二の存在になる!」と目を背けたくなる。だからこそ、「これが自分だ。」と確信する理由が欲しいし、一言で説明できる「診断結果」を求め続けているのだろう。
 「Habit」にはSEKAI NO OWARIが培ってきた近年の強さが窺える。でも私は彼らがバンドを始めた根底にある「弱さ」が全開の楽曲に惹かれるのである。
 分類否定派の人々はおそらくすでに確固たる自分というのが存在し、深さや大きさを拡大していくという地点にいるのだろう。ただ、そこに辿り着いていない人もいる。いや、そういう人ばかりだから分類が流行りになっているのだと推測する。分類に囚われている人は内省を頑張っている人でこれから自分を完成させようと意気込んでいるのだと思う。そんな人を見てどうか「くだらねえ。」と一蹴せずに、成長を見守ってほしい。
 これからどんな形にでも変化できるのだからこそ、その土台となる揺るがない「自分」を模索する時間が必要なのだと思う。

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