キリスト教も哲学なんじゃない?
イエスキリストは生き方を教えてくれるグレートティーチャー!唐突な話ですが、そんな見方もあるらしいと知ったらキリスト教も哲学では?って思えてきました。
突然ですが、皆さんは一神教についてどんなイメージでしょうか?
私は一つの神様を信じ、厳しい教えを守り、それ以外を信じてはならないみたいなイメージで、その厳しさから少しとっつきにくく、アニミズム 的なものの方がしっくりきていたんですが・・
それが覆りました!
仏教の時にも私の学びについて大変お世話になっている、a scopeという番組で、深井龍之介さんと橋爪大三郎さんのキリスト教についての話を聞いた時です。
キリストはグレートティーチャー!?
キリスト教って私が勝手にイメージしていたものとは全然違っていた。ユニタリアンという立場の方達はイエスキリストは神様でもメシアでもなく、先生でありグレートティーチャーとしてのイエスキリストという考え方で、そもそも一つの“教え”として捉えているようなイメージらしいのです。もちろんキリスト教の中にも色んな考え方があって、そのユニタリアン的な立場が全てではなくグラデーションになっているイメージみたいですね。ですが、私にとってキリスト教を一つの“教え”として捉えてもいいし、なんなら他の宗教と合わせて学んでいいんだという、幅の広さがある!ということが新鮮でした。
そして、キリスト教は私が考えていた一神教の厳しさみたいなもの、これに対してのアンチテーゼで生まれている!ということらしいのです。これには尚更驚きました。イエスキリストはユダヤ教の厳しさに対して、神様はそんなに厳しいものではなく、神様の前に全ての人は平等で、愛は全ての人に無条件にそそがれている。ということを言ったらしいのです。当時も生活の中でどうしてもユダヤ教の教えを守れないような状況の人達がいて、そういった人にも救いがあるんだ!という考えから生まれていたみたいですね。この考え方は中世という時代に様々な中で失われていて、宗教改革のルターによって改めて再発見されるというところもあったみたいです。
で、私はこれに驚きはしたのですが、きっと過去にもこの話は聞いたことがあると思うのです。でも今回は衝撃度が違いました。なぜならこの考え方が、“人権”の考え方に繋がっているとも話をされていたからです。
神様凄すぎるから人間皆同じ!
神様の前では皆平等。これについての橋爪さんの説明がとてもユニークだったんです!神様が圧倒的に凄すぎるから、人間のちょっとした身分の違いとかどんぐりの背比べみたいなもんで、全然大した違いじゃないし、もう皆んな一緒みたいなもん!っていうことらしい。だから神様の前では皆同じ人間。そしてこれが人間は身分や生まれに関係なく、生まれながらにして平等である、という人権ともつながる。
私は神様を信じれば救われるとか、救われるために神様を信じるとか、そういう神様というものには馴染めないなーと思ってました。でも、人間を超えた大きな存在があって、その存在は全ての人を無条件に愛し肯定してくれている。救う救われるとかではなく、私達に寄り添ってくれている。そういう存在としての神様なら大賛成だなと思ったんです。
なぜならそれは、こういうことにつながるのでは?と思ったからなんです。
人間が凄いという傲慢を鎮めてくれる
人間に比べて大きな存在を意識した時、謙虚さを生み出し、傲慢になることをおさえてくれるような気がするんです。傲慢から、私は凄いしあの人よりも優れているとか考えてしまうと差別にもつながってしまうかもしれません。でも、私達人間は凄すぎる大きな存在の前では小さい存在で、どれだけ分かっても、どれだけ上手くなっても、まだ分からない知らないことがあるかもしれないと考えると謙虚さにつながるような、そんな感じ。考えてみればこれは無知の知ってことですね。人間を超える凄すぎる存在としての神様を意識したら、無知の知を自覚し、傲慢をおさえ謙虚になれる。そんな気がします。
人間の多様性を認めてくれる
神様の前では皆平等であって、全ての人に愛が注がれるということは、人種はもちろんどんな人間でもその存在は肯定されるということ。つまり、人間の全ての違いは受け入れられるものなんだということですね。今多様性の時代と言われる中で、違った価値観を持った人間がどうやって向き合い、協力して生きていけるのか?という問いに対して、まずは相手に向き合い受け入れることが大切なんだよーっていう気づきをくれるように思います。まず目の前にいる人の存在を肯定し認める。そこから他人との関わりが生まれるという前提に立てば、人は人に対して少し優しくなれそうな気がします。相手を理解出来る出来ないではなく、目の前にいるその人はそのままでそこにいて、ただそれを認め受け入れることが大切なんだということ。
自分の1番の理解者
私は、自身を客観的に観察し理解出来ると、自分が自分にとっての1番の理解者になれる気がするんです。自分の中に1番の理解者がいると、他人の目とかあんまり気にならなくなって、他の人の意見とか気にせず「いやー私はこうだから」っていう自分の意見を大切に出来るようになる。自分の中に1番の理解者がいる感じで凄く安心するという感覚があるんです。自分が自分を客観視してしっかり自己認識している状態。そんな感じ。a scopeの番組の中では理性という単語が出ていましたけど、メタ認知をしたもう1人の自分は理性そのものかもしれません。で、それって実はキリスト教でいうところの神様なのかもしれないなと思ったんです。だから神様って、自分の中にいて、自分の理解者、だからいつも側にいて孤独を癒してくれる。そんな存在なんじゃないかと。神様は自分を超えた大きな存在であると同時に、自分の中にもいて、いつも見つめて受け入れてくれる。だから孤独から解放されるような感じがするのです。唐突ですが、このことは私が好きな細田守さんの『バケモノの子』という映画の中で出てくる「あんだろ?胸の中に剣がさ!」っていう言葉や、親代わりのモノノケが神様になって主人公の胸の中の剣になって心の闇に打ち勝つみたいな話ととてもつながるのです。
最後に
どうでしょう?
こんな風に考えていくと神様が宗教的な存在ではなくて、一つの考え方であり、哲学的な側面を持っているように感じませんか?
神様という存在を神様という名前ではなく、自分の中に自分を超えた大きな存在があるんだというように考える。それをなんと呼べばいいのか分かりませんが、そう考えると以前より落ち着いて生きていける気がする。
なんか不思議とそんな感じがして、とても大きな学びになりました。そして何かスッキリしたような感じがしたのです。