誰に甘やかされなくても自分で自分を甘やかすことは本当に大事。
昨日、たぶん初めて公の場で、リアルタイムで(自分に小声で「あの~、誰も興味ないと思いますよ」と耳打ちしながらも)「書くことはこんなにつらい!」と言ってしまったせいか、自分の肺の一部がだいぶ楽になった。
世のご迷惑と言えばそこまでなのだけれど、心からありがたく思いました、という話。こんな立派な「世のご迷惑プラットフォーム」を提供してくれるnoteさまさまだなと思う。恵まれた時代。でも思えば世の文芸は、いやクリエーター作品は、もっと言えば多分この世の事象はぜんぶ、言ってしまえば世のご迷惑で、それでも仕方ないよやっちゃうよ、という中から千にひとつ、万にひとつ、人目に触れても価値のあるものが生まれることもあるわけで、だから矛盾するようだけど世間での価値に関係なく、自分にとって創作に価値があるのなら、その工程はすでに意味のある、健全なことなのじゃないかなあと思ったりもする。
ちょっと考えてみてください。
もし太宰がまっとうな大人然とした人物で、
「いやいや。僕の胸の痛みなんて、思考の逡巡なんて、まして恋愛の話なんて、世の誰の興味も引かないし、役にだって立ちませんよ」
とすべてをしまい込み、世に出すことなくこの世を去ってしまっていたら、私たちの住むこの世界はなんと色のない、味のないものになっていたでしょう。いわんや世界の文豪をや、です。
ただ、感謝で終わってしまっては自分の円で終わっちゃうので、せめて記録として何が具体的に良かったのかを共有すると、
・一時間しか書けない!と宣言したことで、一時間は四の五の言わずに書けるようになった。
・第二稿の一時間の手直しでも、ディテールを書きこむので原稿用紙2、3枚分は増える。10日で20枚。一か月60枚、そこからさらに半分削っても、ディテールを加えたうえでの30枚増数。ぜんぜん悪くないんじゃないか・・・?
・どうせ一時間、と割り切ったので、頭を使う仕事を全部午後にまわして、朝のうちにやってしまう。思考の一番クリアな時間をその一時間に充てる → 物語の見え方が、明らかに違う。
情景が、登場人物のちょっとした表情の変化や、風の匂いや、道端に落ちてる石ころまで、クリアに感じる。それを写し取る。
・現在午前11時。本日の潜水は終了。
え? あとのタスクは仕事と家事だけ? それ以外の時間は自由に好きな本を読んで、自分を責めなくてもよいの? 自己肯定感、爆上がり。驚愕。
一時間しか潜水できない宣言してからまだ3日目ですが、はてどうなることやら。
そうか。
今日の残り時間は罪悪感を感じることなく、世の名作が読めるのか。
自分の拙い文章世界を一気に離れ、正真正銘の名作に触れられる喜悦と自由 — という倒錯した喜びもなぜか肯定的に感じる不思議な潜水の意義。