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わかりあえない他者と生きる-ブックレビュー(映画や芸術にも反映される?)
哲学者マルクス・ガブリエル氏へのインタビューをもとにした『わかりあえない他者と生きる』(2022)を読了。
コロナによるパンデミックや人種、社会的な分断がかつてないほど広がっている現代における対策が非常にわかりやすく書かれている。
専門的な哲学書でなく一般書で、専門知識がなくても読めるのも魅力。国や宗教にも具体的に触れておりアメリカの中絶違憲問題などを考える上でかなり有益だ。
マルクス・ガブリエル氏は『なぜ世界は存在しないのか』(2013)でポスト構造主義から脱すべく新実在論を提唱した人物で、本著もその新実在論(すごくはしょれば実存主義とポスト構造主義のいいとこ取りのような主張)がベースにありつつ、どう実践していくか存分に語られている。
倫理的な観点に主眼が置かれ、コロナや人種差別、家族愛など具体的な解説がなされた。
主題は「倫理には普遍性があり、それを対話で見つけられる可能性」で、人類に一筋の光を与えるような内容だ。
そこから経済と倫理が合体した倫理資本主義(倫理的な制約があり、倫理的正しさによって付加価値すらある)への未来が提唱される。
人類全体への解決としてはすこぶる正しくて素晴らしいと思う。
倫理的や対話の教育水準の爆上げ、世界の貧困の解決、排他的な宗教信徒の問題など、時間も労力も途方もない解決課題はあるにせよ、目指すべきひとつの方向ではあるだろう。
一方で、倫理に普遍性があるというのが一定理解できながらも、個性や感性に触れるレベルまで細分化されるとどういった議論になるか私自身はまだ明確にイメージできていない。
通常は倫理と感性がバッティングする前段階までの普遍性を決めれば問題ないとなるのかもしれない。
ただ例えばスペインの闘牛など、文化であっても倫理的な是非が問われる対象もある。芸術と文化と人間と動物が関わった問題がどう1本化されるのだろうか。芸術と動物の尊厳を理屈で折り合いつけられるのだろうか。
暴力的なゲームや映画・ドラマなどはどうだろう。デヴィッド・リンチの映画は倫理で規定できなそうだ。『ウォーキング・デッド』はどうだろう?
ゲームや映画などについては個々の精神の状況で倫理のパターンを分岐させればいいかもしれないが、「君はちょっと不安定だからイレイザーヘッドは観るのやめたほうがいいかも」と誰が判断できるのだろうか。自分で判断できるのか。
まあ『イレイザーヘッド』は別に全人類が見ても大きな問題は起きないとしても、もっとヤバい作品はあると思う。
映画やゲームなど、そこまで倫理を細分化と適応しなくてもいいのかもしれない。しかし例えば闘牛に人生をかけているマタドールは、仮に倫理的に闘牛が正しくないとなった場合、人生や尊厳の一部を奪われたことにならないか。
またマイケル・サンデル教授が言っている様々なトロッコ問題的なジレンマも、話し合いや理屈で解決できるのだろうか?
「反対組織に自軍の存在を密告する羊飼いを殺すか否か?」みたいな究極の状況が出ることを人類がクリアしたと想定しての議論なのかもしれない。が、「それに近いレベルの大きな問題が人類のある段階から発生しなくなって万事収まる!」とは限らないのでは?
私の無知や理解力のなさももちろんあるのだろうが、疑問が尽きない。
さらにいうと、私たちには「人と違う自分でありたい」という要求があり、それが融和されていくことに抵抗感のようなものを感じてしまう(無意識による拒否なのか)。
もちろん、マルクス・ガブリエル氏の主張によれば連綿する意味の場に個性も収束できるはずなので、決してエヴァンゲリオンの人類補完計画みたいにはならないと頭では分かっているのだが、完全なオリジナルなどないとわかりながらそれを求めるジレンマのようなものが具体的な解決イメージをやんわり拒否している。
そこに自分の器の小ささを感じるし、自分や他者との対話で心から納得できる解決をしなければならないと思った。
ともかく、『わかりあえない他者と生きる』は読んでいると脳をフル回転させられて議論の当事者として巻き込まれていく。良著。