ポスト一万円札「六十、七十は働き盛り」←今の現代やん
こんにちは、『生きるの辛いよ、死ぬの怖いよ』コーシローです。
タイトルの言葉は、
ポスト1万円札、渋沢栄一さんの言葉だ。
こういったことを書く場合は、渋沢栄一さんがどんな人かを書くのがセオリーだ。
普通のブログならそうする。
しかし、僕も含め、多くの人は渋沢栄一さんがどんな人なのかは、あまり興味がないだろう。
そんな人のために、端折った紹介をする。
これだけ覚えておこう。
どうだろう。
これだけ聞いてしまうと、少し負のイメージがわかないだろうか。
僕はわいた。
僕は偉い人に対する、妬み嫉みが強い傾向にある。
こういった、感情は捨てたいと常々思っているわけだが、今回の渋沢栄一さんの件と、僕の妬みは関係ない。
妬みが湧くのは僕が無知だからだ。
渋沢栄一さんについて僕が無知だから、嫉みも湧くのだ。
なので、そんな無知な偏見は放っておく。
今回話題にしたいのは、渋沢栄一さんが残した言葉についてだ。
六十、七十は働き盛り
上記の言葉、
『六十、七十は働き盛り』
という言葉は、渋沢栄一さんが残した言葉のほんの一部だ。
全文はこう。
これです。
これが全文です。
39である僕は、まだ『はなたれ小僧』にもなっていないようだ。
渋沢栄一さんが生きた時代は、1840年から1931年。
渋沢栄一さんは、91才まで生きているので長寿だが、今ほど日本人が長寿ではない時代に、こんな言葉を残しているのが面白い。
そして、その中の
『六十、七十は働き盛り』
という言葉は、今の日本をそっくりそのまま表している言葉に感じます。
そしてこの言葉は二通りの捉えかたができる。
辛いと思うか
楽しみと思うか
の二通りだ。これについて僕が思うことを書いていきたい。
辛いと思う理由
『六十、七十は働き盛り』
という言葉を辛いと感じる人は、仕事が楽しくないのだ。
仕事は生活のために仕方なくやるもので、今すぐにでもやめたいと思っている人が、この言葉を聞いて辛いと思うのだろう。
というか、ほとんどの人がそうだと思う。
僕もそんな中のひとりだ。
年金受給年齢が、これからガンガン引き上げられていくのは目に見えてわかる。
僕のようなアラフォーが年金をもらえるようになる時期は、70を確実に超えるようになるだろう。
六十、七十が働き盛りかどうかは置いておいて、僕らは70代まで確実に働かなくてはいけない時代を生きている。
なので、仕事が楽しくないと、『六十、七十は働き盛り』という言葉を聞くと辛いのだ。
楽しみと思う理由
圧倒的少数派だとは思うが、『六十、七十は働き盛り』を楽しみだと思う人もいるだろう。
そんな人は、仕事が生きがいなのだ。
やっていて、楽しくてしょうがないもの。
それが仕事だと感じている人達だ。
羨ましい。
僕は仕事が楽しい。なんて気持ちは生まれてこの方、感じたことがない。
しかし、僕の勤めている中小企業のような会社にも、そんな人はたまにいる。
定時になってもなかなか家に帰ろうとしない、少し役職が上の、部長のような人間がそうなのだろう。
…そうなりたいか?
僕はそんな人を見るたびに、
「この人は、仕事しか楽しみがないのかな…」
なんて気持ちになっていた。
しかし、現代ではそうでなくてはいけないのだ。
ほぼ強制的に、七十まで働かなくてはいけない現代では、仕事は楽しいものにしないといけない。
というか、楽しくない仕事を七十までやるなんて、苦行でしかない。
仕事を楽しくこなす、は現代では必須の行為だ。
辛い現実を楽しく生きる
現代は辛い。
定年まで仕事をして、老後は悠々自適に過ごす時代なんてのは、とっくの昔に終わっている。
あなたの周りに、60代でそれまで勤め上げてきた会社から、半分追い出された形で辞めさせられていた人はいないか?
僕の周りにはいる。
そんな人達の多くは死んだ目で仕事をしている。
年下の上司にこき使われて、やりがいのかけらもなく、仕事をこなしている姿を見ると辛くなる。
これが僕の未来になるのかもしれないと思うと、本当に笑えない。
なにが問題かというと、その年齢でも『会社に務める』という稼ぎ方しか方法をしらないことが問題だと思う。
会社に務める、は受動的行為になりやすい。
僕は人生を楽しむコツは、能動的か、受動的かで変わると思っている。
もちろん、人生を楽しむなら、能動的になるのが正解だ。
会社に務める=受動的
自分の力で稼ぐ=能動的
極論をいえば、自分の力で稼ぐことができるようになれば、仕事は楽しくなり得る。
みんなここを目指すべきなのではないかと思う。
特に、僕のようなアラフォーは自分で稼げるかどうかは、本当に死活問題だ。
辛い現実を楽しく生きるために、僕たちは自分の力で稼ぐ方法を探さなくてはいけない。