見出し画像

コーヒーは「おわり」なのか、「はじまり」なのか?

 恩田陸さんの「三月は深き紅の淵を」という小説の中に次のような一文がある。

酒を飲んだあとにコーヒーを飲むのを嫌がる友達がいたっけ。コーヒーを飲むと一日がこれでおしまいという感じがするからだそうだ。

恩田陸、「三月は深き紅の淵を」、講談社、 2001、p174

 コーヒーの味は嫌いじゃないが、あまり積極的に飲まない。他に飲むものがあればそちらを選ぶことが多い。最近ふと、苦手ではないのになぜ自分はコーヒーを選ばないんだ?と自問自答した。恐らく学生の時に読んだこの一文に影響されたんだろうと数十年越しに思い至った。一日がおしまい、なんて実感するのが何だか寂しく残念な気がして、無意識に避けていたんだろうと。

 だが、よくよく考えると矛盾している。コーヒーは眠気覚ましに飲まれることも多い。一日の終盤に飲んだら終わるどころか、元気に覚醒して何でもできるようになってしまう。「おしまい」どころか「はじまり」の象徴ではないか。

コーヒーってこれからのための飲みものって感じがする。

宮下奈都、「とりあえずウミガメのスープを仕込もう。」、扶桑社、2018、p115

コーヒーを飲んで一息ついたら、さて、もう少し頑張ろう。私にとっては、コーヒーというのはそういう飲みものなのだ。

宮下奈都、「とりあえずウミガメのスープを仕込もう。」、扶桑社、2018、p115-116

 コーヒーの特性を考えればこちらの方が現実に即している。

 その一方で、食事が終わってからコーヒー単独を「シメ」で飲みたい、という声も聞く。これは飲みごこちが理由かもしれない。コーヒーの何物とも調和しないインパクトある苦味、全てを帳消しにするような独特な香り、何かの区切りを打つ目印として「コーヒーを飲む」という行為は分かりやすい。

 結局、どちらだとしても違和感が無い。「おわり」だとしても「はじまり」だとしてもどちらもコーヒーのイメージ、特性に合っていると感じる。

 「おわり」と「はじまり」、相反する二つの事柄を包括しながら矛盾しない存在。他の飲み物で、そんな強烈なイメージが湧くものない気がする。

 物語のモチーフとしてコーヒーはよく出てくる。エッセイなどでも語られがちな存在だ。なぜこんなに目に触れることが多いのだろう。
 人の数だけコーヒーのイメージ像がある。多面的に魅力を形容できる。そんな引き出しの多い、不思議でミステリアスな存在感が人々を惹きつけてやまないからかもしれない。


↓コーヒーの話抜きにしてもどちらも面白い、おすすめの本です。

いいなと思ったら応援しよう!