「訳詩」考 02
"Der Lindenbaum" Wilhelm Müller
Am Brunnen vor dem Tore Da steht ein Lindenbaum;
Ich träumt'in seinem Schatten So manchen süßen Traum.
Ich schnitt in seine Rinde So manches liebe Wort;
Es zog in Freud und Leide Zu ihm mich immerfort.
Ich mußt' auch heute wandern Vorbei in tiefer Nacht,
Da hab ich noch im Dunkel Die Augen zugemacht.
Und seine Zweige rauschten, Als riefen sie mir zu:
komm her zu mir, Geselle, Hier findst du deine Ruh!
Die kalten Winde bliesen Mir grad in's Angesicht;
Der Hut flog mir vom Kopfe, Ich wendete mich nicht.
Nun bin ich manche Stunde Entfernt von jenem Ort,
Und immer hör ich's rauschen: Du fändest Ruhe dort!
Nun bin ich manche Stunde Entfernt von jenem Ort,
Und immer hör ich's rauschen: Du fändest Ruhe dort!
菩提樹 (訳詞:近藤朔風)
泉に沿いて茂る菩提樹
慕い行きては うましゆめ見つ
幹にはえりぬ ゆかしことば
うれし悲しに といしそのかげ
きょうもよぎりぬ 暗き小夜中
まやみに立ちて まなことずれば
枝はそよぎて かたるごとし
来よ いとし友 ここに幸あり
面(おも)をかすめて 吹く風寒く
かさはとべども 捨てて急ぎぬ
はるかさかりて たたずまえば
なおもきこゆる ここに幸あり
はるかさかりて たたずまえば
なおもきこゆる ここに幸あり
シューベルトの連作歌曲集
『冬の旅』から第5曲『菩提樹』、
今日まで歴代の名歌手達に
連綿と歌い継がれている曲だが、
近藤朔風による日本語歌詞の曲に
親しんでいる人も多いのではないだろうか。
本来、連作歌曲の一部として
前後の曲と内容的にも音楽的にも
有機的な繋がりを持つ曲ではあるが、
この曲だけを取り出して歌われる事も多く、
また、合唱曲として編曲されたものもあり
これまた多くの人達に愛唱されていると聞く。
さて、この『菩提樹』、
私も何度か日本語で歌ってみたのだが、
どうにも違和感を覚え、
また伴奏者からも
「どうも弾き辛い」との評価を貰い
途方にくれた経験がある。
近藤朔風の歌詞自体は
とても格調高く作られており、
それのみを取り出して眺めても、
溢れ出る詩想が垣間見える。
また、
シューベルトの旋律とも相性が良く、
独特の郷愁をそそられる。
にもかかわらず、
曲として完成させようとすると、
違和感を覚えてしまうのだ。
「原語の歌詞で歌うのと
日本語歌詞で歌うのでは
感じが違って当然」
・・・と考えるのは簡単だが、
「なぜ、原語と日本語では違ってくるのか」
「それでは、原語版と訳語版に優劣はあるのか」
・・・今回はこれを命題として
考察してみることにする。
※ ※ ※ ※ ※
同じ曲の
原語バージョンと訳語バージョン、
基本的な相違点としては、
まず第一に成立過程の差異がある。
原語バージョンの場合、
まず「詩」というものが作曲の前に存在する。
作曲者は詩に対する自分のイメージを
曲として表現する訳であり、
先行して作られた曲に対して
適切な詩を探してくる訳ではない。
(全くないと言い切る自信はないが・・・)
しかし、日本語バージョン(訳詞バージョン)の場合、
既に曲と原詩(原語歌詞)は完成されているものであり、
曲のイメージを崩さないように
訳詞(訳詩)を作成していくことになる。
あるいは、原詩をあえて無視し、
全く別の内容の歌詞を作成するという
手法もしばしば用いられるが、
この場合は通常、
「別の曲」として扱われることになる。
(例えば『蛍の光』など)
相違点の第二は言語そのものの問題。
同じ内容の詩であっても
ドイツ語と日本語では音韻が全く違ってくる。
これは単に
「詩の韻を日本語で再現する事ができない」
という事に留まらず、
各々の単語が保有するリズムや強弱
(いずれも曲に反映される)
すら再現できないという事を意味する。
例として『菩提樹』冒頭の
1フレーズを取り出してみよう。
(伊藤玲子編『世界名歌選集』ドレミ楽譜出版社より)
冒頭の「いずみにそいて」という日本語歌詞は
メロディと一致しており、その意味において
曲としての不自然さは特に見当たらない。
だが、原語歌詞と比較してみるとどうだろうか。
日本語の「いずみ」という
1つの単語に対して
原語では"Am Brunnen"として
2つの単語が充てられている。
発音でみると
"Brunnen"は子音が重なっているため
「いずみ(izumi)」のように
さらりと流れるようには発音できず、
ドイツ語ならではの抑揚が出てくる。
この言葉の問題は発音のみならず、
曲の解釈にも影響を及ぼすことになる。
先の"am Brunnen"を例にとると、
"am"は前置詞+定冠詞の複合形で「~の処に」を表し、
"Brunnen"は「噴水」を表す名詞。
"vor dem Tore"まで含めて
「市門にある噴水の処に」という意味となる。
問題はこの"am"で、
これは次のフレーズにある"da"(そこに)を通じて
"Lindenbaum"(菩提樹)に繋がる単語。
よって、
この2つの単語を歌うには
1."am"の意味を重視して歌う。
2."am"をあくまで"Brunnen"の前置詞として扱い、
"Brunnen"を重視する。
3.全体の抑揚をあえて抑えて、淡々と歌う。
という3通りの解釈が
良し悪しを別にして成り立つのだ。
当然のことながら
解釈の違いによって演奏も変化することになるが、
これが日本語歌詞の場合、
「い・ずみ」とか「いず・み」などに
変化させることは出来ない。
「いずみ」という言葉自体、
アクセントを持たず各母音も均等であるため、
言葉だけでは抑揚の変化が起こり得ないのだ。
伴奏者と曲を完成させようとした際に感じた違和感は、
実はここから派生するものだった。
※ ※ ※ ※ ※
では、これほどまでに差のある
日本語バージョンと原語バージョン、
両者に優劣はあるのだろうか?
シューベルトは、
あくまで原詩を元に作曲を行っている。
これが逆であるならば、
原語バージョンと日本語バージョンの
いずれにおいても立場は同じとなり、
「曲に対する詩の完成度」という
その一点において優劣を競うことはできるだろう。
また、あくまで
「シューベルトが作曲した曲・用いた詩」
というものを第一義に持ってくるのであれば、
彼のあずかり知らぬ日本語訳詞は問題にすらならない。
しかし、歌曲というものが
「詩から惹起された作曲者の曲想を楽譜に記したもの」
だとするならば、訳詞曲というのは
「訳者が原詩・原曲から惹起した詩想を訳詞として加味し、
原曲とは独立した価値を持つ曲として再構築したもの」
と呼ぶこともできるのではなかろうか。
『ここに幸あり』
という言葉に涙した人達にとって、
この曲は"Die Lindenbaum"という
外国語曲などではなく、
あくまで日本語曲の
『菩提樹』であるように。
(冒頭の絵画はHans Baluschek "Am Brunnem vor den Tore" 1917)