自分の推し思想、レヴィナスについて語らせて

お疲れ様です。

noteのおすすめハッシュタグに「国語が好き」というものがあり、気になって概要を読んでみたら、「あなたの推し学問を語ってみませんか」とあったので、え!語りたい!と思って語らせてもらうことにした。

僕の推し学問は哲学、特にレヴィナスという思想家が好きだ。
レヴィナスは哲学においてはそこまで有名ではなく、むしろ「あんなのは哲学じゃない」と批判する人も多かったりする。
でも、レヴィナスは他者というものを克明に描き出し、第一哲学としての倫理を打ち立てた、めちゃくちゃすごい人だと僕は勝手に思っている。

「全体性と無限」という著作を主に学生時代に読んでいたのだが、レヴィナスの問題意識はまず「全体性」というものだ。
例えば、あなたはあなたの机の上にある消しゴムを「消しゴム」だと定義できるし、そう認識している。
でも、よくよく考えると、それはゴムという物質が適度な量・形に型取られている物だ。
それをあなたは消しゴムと呼び、書いた文字を消すために使用する。
つまり、消しゴムを「消しゴム」として存在させているのはあなただ。
このように人間はある存在者に対して定義づけを行い、その存在者を存在者たらしめる。
簡単な図で言うと、
「あなた」→(定義づけ)存在者→「◯◯(名前)」
みたいなことを人間は行っている。(わかりづらいかも…)
要するに、人間は一方的に存在者を定義づけし、その存在者を「◯◯(先の例では消しゴム)」というものたらしめるという、形式を持っている。
この形式をレヴィナスは「全体性」と呼んだ。
この「全体性」があるからこそ、人は物や概念について認識し、理解が可能なのだ。

え、なんでそれが問題なん?と思った方、鋭い。
レヴィナス曰く、この「全体性」とは一種の暴力だという。
なぜなら、あなたという主体が一方的に客体を定義づけてしまう形式だからだ。
では、客体にあたるものが物ではなく、人、つまり他者になったとしたら…。
主体が他者を一方的に定義づける、こう考えると「全体性」という形式の持つ暴力性が浮き彫りになってくる。
レヴィナスが生きていた時代、それはナチスが台頭し、ホロコーストが行われた時代だった。
ユダヤ人は収容所に入れられ、髪は剃られて銀歯も抜かれ、金目のものは全て奪われた後にガス室で殺された。
人がまるで物のように扱われ、それが罷り通ってしまった最悪の時代。
この悲劇こそ人間に備わった「全体性」が引き金だったとレヴィナスは言う。

他者にはこの「全体性」を逃れる「他者性」が存在する。
主体がいくら「あなたはこういう人!」と定義づけようとしても、他者はその暴力に決して屈することはない。
この暴力への抵抗をレヴィナスは「顔」「〈他〉」と呼んでいる。
多分、読んでる人はこのあたりから何言ってるのかわからなくなってくると思う。
ちなみに、僕もこの説明を書くのが難しい。
それには理由があるのだが、その前にこの「顔」についてもう少し語らせてほしい。
この他者が見せる「顔」は「全体性」という暴力に対する絶対的な抵抗だ。
先にも述べように、主体と他者、つまり、自分と他人は際限なく異なっている。
例えば、誰か身の回りの人を思い浮かべてほしい。
その人は自分と同じ人間で、社会人で…と共通項はいくらでも見つかる。
でも、その人の全てを自分が理解でき、「この人はこういう人!」と断言できるだろうか。
レヴィナスは「全体性」から逃れる他者のこの性質を「無限性」と呼んだ。
他者は常に「無限性」を持つ、だから、僕たち主体は他者を「全体性」によって把握することはできない。

そして、さらにレヴィナスはこの無限なる他者が主体に対して現れるとき、主体は他者に対して「応答可能性」を持つという。
決して自分には把握し得ない、計り知れない他者が自分に対して現れた時、僕たちはそれに何らかの形で応えざるを得なくなる。
卑近な例になるが、道端で突然すれ違った人が「◯◯さん!」とあなたの名前を呼ぶとき、あなたは少なくとも何らかのアクションを返さないといけないだろう。
「え、誰この人、無視しよう」と決めて無視したとしても、それは相手にとって無視という応答であることは間違いない。
つまり、主体が他者への「応答可能性」を持つとき、主体は「応答しなければならない」という「義務」と「責任」を持つことになる。
レヴィナスにしてみれば、「義務」や「責任」は他者が現れて始めて生じるものであり、これらの概念によって必然的に「倫理」が生まれる。
先に書いた「第一哲学としての倫理」とはまさしくこのことだ。
仮に世界には自分しかいなかったとしたら、あらゆる物は自分が何らかの意味づけ、定義づけをして「これはこういうものだ」と自分に理解されるだろう、これは「全体性」の働きによるものだ。
しかし、他者が現れたとき、その「全体性」は他者には決して及ばず、自分は「応答可能性」を迫られる。
こうして初めて、「他者に対する自分の振る舞い」について考える必要性が出てくる、これこそ倫理学なのだ。

めちゃくちゃ大雑把にまとめるとレヴィナスの基本的な思想はこのようなものになるだろう。
多分、途中から何言ってるのかわからない部分が出てくると思う。
ちなみに、実際の本を読んでもらうともっとわからなくなると思う、レヴィナスのテキストは本当に訳がわからない。
ただ、これには理由がある。
先に述べたように、他者とは「全体性」に屈しない「他者性」を持つ。
こうした他者に対して、レヴィナス自身が「他者とは〜で〜なものだ」と定義づけたりすると、明らかな矛盾が生じる。
なぜなら、絶対に把握しきれない「他者性」を持つ他者について定義づけるということをレヴィナス自身がやってしまうと、「え、自分で他者を定義づけてません?」という自己矛盾に陥るからだ。
こうなってくると、他者について分析する、テキストとして書く、説明するということが困難になる。
言うなれば、りんごを知らない人に「これは果物で、赤くて、甘くて…」と言わずに説明すると同義なのだ。
じゃあどうするかというと、主体である私の視点から他者を描く、ということをせざるを得ない。
先のりんごの例で言うと、りんごそのものの定義を言えないので、「ある日果樹園の近くを散歩していたら赤い実がなっていた。それは甘い匂いがして形は丸に近くて…」というように、小説みたいな、若干文学チックなことを言わざるを得ない。
だから、レヴィナスのテキストを読むと「これ本当に哲学書なん?文学じゃね?」みたいな、レトリックが多用されたよくわからん文章になっている。
「レヴィナスの思想は哲学じゃない」という批判があるのもそのためだ。

ただ、だからと言ってレヴィナスの思想が無意味だとは全く思えない。
むしろ、レヴィナスの哲学は現代にこそ必要だと、僕はそんな気がしている。
現代において、幸福とは個人の価値観に大きく左右される。
古代ギリシアでは共同体の一員として責任を果たし、高徳であることが幸福とされていたが、今は「平穏な生活」や「経済的豊かさ」など、個人という枠組みの中で幸福は追求される。
こうした個人主義の中で生きる僕たちにとって他者とは何なのか、そして、倫理とは何なのか。
レヴィナスの言ってることはマジでよくわからないが、ただ、僕たちの暴力性と他者の存在、倫理の必要性を強く教えてくれている。
これは決して蔑ろにしてはいけない気がしてならない。


たっぷり語らせてもらえてほっこり。
たまに人と大学時代の話をしていると「倫理学やってたんだ!人を殺しちゃいけないのはなぜか?とかやってたの!?」とか雑なフリをされる。
あと、僕の友達は個人事業をやっているのだが、僕に向かって「俺、倫理観だけは人一倍あるから!」と言っておきながら、僕がうつ病になったと聞くと「彼女と別れてさっさと地元に戻ってこいよ、雇ってやるよ」と言ってくる。
倫理とは…倫理とは何たるか…俺が考えさせてやろうかー!という感情が湧き出てくるのだが、それをグッと堪えて話をテキトーに流す。
なので、あまりこういった話をする機会がない。
はーすっきりーって感じ。

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