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お袋の「エンディングノート」

多発性骨髄腫
2011年3月の大震災後、お袋が出先の道端やスーパーなどで貧血のため、何度も意識を失った。そのつど救急車で搬送され、私の携帯電話に連絡が入る。
そして病院へ駆けつける。基本仕事中なので、このままでは対応しきれない。そこで一度精密検査してよと言うことで、嫌がるお袋を強制的に入院させた。それが5月だった。

検査しても心臓、内臓とどこにも問題なし、でも貧血は治らない。結局1ヶ月近くの入院で、やっと分かった。それは血液癌、多発性骨髄腫だった。それもステージ4だ。
実際もっても2年と医者に言われる。
治療は抗ガン剤での対処療法で、治療サイクルがあるらしく、ワンサイクルやって、それが効くようなら退院して自宅治療となる。

効果はあったが、色々問題もあり、7月頭に実家に戻る事になった。
老人は入院すると運動機能は一気に衰える。半年近くの寝たきり生活、元々調子の悪い膝の筋肉が固まり、全く歩けなくなっていた。
介護保健の申請をするといきなり要介護4となった。

介護生活スタート
 お袋は実家で一人暮らししていた。このままで生活出来ないので、誰かが世話をしないと生きてはいけない。
家も退院前に少し改造する。車いすの移動が楽になるように、フローリングの部屋を一部屋増やし、車いす、介護ベッドや携帯トイレなどもレンタルして用意する。

昼間はピンポイントでヘルパーに委託する手続きをして、私も弟も実家から半径3km内に家があるので、夜は弟とで、3泊4日サイクルで世話をすることになった。
余命2年、親孝行しようという気持ちであった。

薬の副作用
細かく介護の段取りや内容はここでは書かないが、仕事を持っている身での介護は地獄のような生活だ。
睡眠不足とか不眠は当たり前、親の介護は想像以上に大変だ。

結構強力な薬のせいで、お袋は食欲がなくなり、仕出し弁当などを見ただけで、気持ち悪いと吐いてまで食べるのを拒否する。
結局、朝と昼は私と弟が、お袋の好きな物を用意することになる。仕事へ出かける前に準備をし、ヘルパーにはメモで指示する。かなりの負担となった。

譫妄 幻覚
本当に見えるのだろう。窓の外、庭にお坊さんが3人いるとか、家の鴨居の上に子供の顔が見えるなどと口走るようになる。
また普段はあまりしゃべらないで、だらだら寝転んでいるタイプなのだが、その時は、何かに取り憑かれているような顔になり、ハイテンションで意味不明の事を喋り続ける。

幻覚はどんどん激しくなり、私の横に小僧がいるとか言い出す。
そしてある日、私達がいない夕方、ヘルパーが対応している時間帯だ。部屋に人が沢山いる警察を呼べと騒ぎだした。

その状況をヘルパーは怖がって、ちょうど東京ドームで、お客さんと巨人戦を観ている私に電話してきた。
「私よりまず病院の担当医に電話してください」とヘルパーに言ったが、経験の少ないおばちゃんヘルパーじゃしょうがない。お客さんに詫びて帰宅した。

譫妄が酷いのか、医者の指示で再入院する。幻覚症状が抗がん剤の副作用かどうかを検査することになる。病院でも一人で見舞いに来た私に「今日は小僧さんと一緒か?」と言う。
「あのさぁ、幻覚だよ」
「でも見えるから、1人増えたよ・・・」
その他の会話はまともだが、顔には何かが取り憑いていた。
これはやばいなと思った。
もしかしたら、ハゲタカが腐肉に群がるのと同じで幽霊を呼び寄せているのかなと思ったりした。

私もこの頃、お袋からもらった霊の影響か、深夜に金縛りで首を絞められていた。まさに稲川淳二並みの状況に陥る。疲れて不眠症だからとも言える。

検査の結果はよく分からないが癌の症状が進行はしてないので、薬を中止した。そして実家に戻る。
その後、幻覚は収まったが、私達兄弟の過去の悪徳への罰のような介護生活は続く。

奇跡の回復
そして、半年近く経ったある日、気づくと最近はよく食べる。また太ってきた。顔からも死相が消えている。
「あれ、おかしいぞ、血色のいいデブの末期ガン患者なんか見たことない」そこで医者に何かおかしくないかと再検査を依頼。

そして検査すると、その結果なんと
「進行が止まっている」
1ヶ月後再度検査するが、進行は止まったままで、更に症状が消えていた。
「奇跡だ!」

ただ癌は再発する。3年は安心出来ないと言われる、でも80過ぎの婆さんに3年先でも10年先でも対した問題はないだろう。

さて、奇跡の復活だが、1年以上の寝たきり生活のため、さらに膝が固まり歩けない。介護4は変わらない。つまり介護だけは続くことになる。10年以上続く可能性もある。
私たち兄弟は、老い先短いのだからと頑張ってきたが、さて、どうするかだ。途方にくれる・・。

「エンディングノート」
そんな思いにとらわれていた時、ふっと思うことがあり、「エンディングノート」2011年の邦画のDVDを買う。

ご存知の人もいるだろうが、これはホームビデオで娘が撮った自分の父、熱血サラリーマンの父が癌になり、亡くなるまでの記録だ。
父が癌により人生の期限が迫った後に、自分でエンディングをどう描いたかを記録したドキュメンタリーだ。

その映画の中で医者からステージ4と言われた家族、その告知をどうするかと問われるシーンがある。これは私の実体験とダブル。

私達家族は未だに告知していない。だからお袋の場合「エンディングノート」はないのだ。まだ生きることになっている。

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「営業一筋40年、ありがとうございました」と挨拶、庶務の女性から花束を貰って、拍手の中で定年退職するシーンがあった。
本当に日本の企業、ひと昔のサラリーマンの人生の終焉。それを否定も肯定も出来ないけど、今基本のとなっている義理人情のない、損得だけの働き方がいいとも思えない。
人生は有限だ。
でも、人の為に生きたら、その思いは永遠に続くだろう。

その後
お袋はさらに元気になり、要介護4から3となった。
また運良く特別養護老人ホームにも入所できた。
ホームの部屋の窓から、隣にある保育園の園庭で遊ぶ子供達を眺める。
そんな穏やかな日々を過ごしていた。

しかし、その安息は1年も持たなかった。
冬場に風邪をひいた。ウイルス感染は死へのトリガーになる。
そのまま動けなくなり、老人ホームは退所。
そして緩和ケアの病院に移る。俗に言う「死を待つ病院」
あまり頻繁に行く気にはならない病院だ。医師とか看護師が人を助けることより、苦痛をなくして見送ることを主体としている。

そこで、延命治療の説明を受けて、それを受け入れるか、止めるかの判断を迫られた。
ここで延命を拒否出来るほど私は強くはない。

病院へ行くたびに、食が細くなり、生気が無くなっていくのがわかる。
遠くを見つめる目は果たして、私が見えているだろうか?

そして2018年(平成30年)3月30日の深夜に息を引き取った。
診断書には老衰と書かれた。
そうか老衰か、つまり癌は克服したが寿命だったのね。
DNAに刻まれた寿命を全うした。
「よかったね」

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