見出し画像

ペンギンが教えてくれたこと

 久しぶりに本の話をする。
「ペンギンが教えてくれたこと」2016年発刊

ペンギンが教えてくれたこと

 この本を買ったのは2018年夏だった。まず当時の私の状況から話をしよう。この年の春に緩和ケアの病院に入院していた母親が亡くなった。看取ったのは深夜2時頃だった。その日の朝に出棺した。病院の庭には桜の花びらが舞っている。そんな朝だった。私はようやく終わった忙し日々に安堵していた。

 3人の子供達(息子、娘1、娘2)は、息子、娘1は大学を卒業して社会人となっていた。娘2は大学2年だ。家のローンも完結し、ここ8年程続いた厳しい日々が過ぎ去り、私はようやく穏やかな日々を過ごしていた。長い話だけど、この日を向かえるまでの出来事も書きたくなった。

ニャーンと長い話だろうか。。

怒濤の日々の第1弾
 それは2010年夏から始まった。娘2(小六)の2度目の再検査だった。そこで1型糖尿病を発病していたことが発覚した。病状は非常に悪く、娘2の病気を特定した先生のいる大学病院へ緊急入院となった。
そしてその先生が言う。
「この病気は原因が不明で不治の病です。日本での患者数は10万人に1人程度です」
「治療は一生続くけど、普通に生活できます。小児難病申請をしてください。医療費の控除が受けられます」とも言う。
私は頭がフリーズした。

1型糖尿病は、膵臓のインスリンを出す細胞(β細胞)が、壊されてしまう病気です。β細胞からインスリンがほとんど出なくなることが多く、1型糖尿病と診断されたら、治療にインスリン製剤を使います。

自己免疫によっておこる病気。自分の体のリンハ球が、あやまって内乱を起こし、自分自身のインスリン工場、膵臓にある膵島β細胞、の大部分を破壊してしまうことで発病します。

生活習慣病でも、先天性の病気でもありません、遺伝性もありません。過去のウイルス感染がリンパ球の内乱のきっかけになっている場合が多い自己免疫の病気です。

 治療はインスリンの皮下注射を適切にするだけだ。食事する度にそのカーボン(糖質)を分解する分だけインスリンを投与する。ここにはリスクがあり、インスリンの量を間違えると、今度は低血糖症になり、ヘタをすると脳障害を起こす。だから1日何度も血糖値を計ることになる。普段人間が体の中で自然処理していることを、自分でコントロールする必要があり、その訓練も入院中受けていた。

 突然、11才の娘が難病で一生治療を続ける必要があることになった。それを聞き親としては「何故、家の子が・・」と考えてしまう。
子供に難病が発症した場合、親は打ちのめされる。しかし、そのままノックアウトされる訳にはいかない。面倒な問題が次々と持ち上がる。娘2の将来をまず考えないといけない。

学校での問題
 食事毎にインスリン注射をする。血糖値も計る。これは小学生6年生の子供として大変なことだ。一例として、給食の後、インスリン注射をする必要がある。
教室で注射器をだして打つことは無理なので、その事を学校へ相談する。また低血糖を起こすと意識障害が起こる。その時の対処方法も話す。ここで学校の対応が大きく別れる。面倒は避けたい人もいる。
「そんな病気なら養護学校だろう!」
「保護者が対応しろ!」今時そんなことを言う校長も多い。

 2005年に私が視察したフィンランドの小学校では、ここでは1型糖尿病の子供は日本の10倍以上いる事情もあるが、注射をする場所が学校に用意されていた。また注射する生徒を見て騒ぐ児童もいない。私はこの種のハンディキャップを持つ子供達への対応が日本では不足していると感じた。

 「もし学校と揉めたら私に言いなさい」
娘2の担当の大学病院の教授が説明に行ってくれるという。過去何度もそんな話はあったようだ。心配したが、娘2の小学校ではそんなことはなかった。親としては、今後の進学、特に中学校は中2病、イジメもあるし心配だ。公立は先生の移動が多く、対応が突然変わる可能性も多い。

ちなみにこの素晴らしい教授とは、この頃からバンドを組むことになり、今でもライブを続けている。そんな不思議な縁もある。

 そこで姉の娘1が通っている私学(中高一貫の女子校)を受験させることにした。ここの私学は環境がいい。とんでもない子供や先生、親もいない。
夏休みから受験の特訓が始まったが、何とか合格し、そこで彼女の運命は好転した。子供にとって学校の環境は非常に大事だ。

更に追い打ち
 まだまだ続く怒濤の日々、その年、近所の実家で一人暮らしをしている私の母親が多発性骨髄炎を発症した。余命2年と医者から言われる。
「どうして、このタイミングで・・」
母親はこの病気で足腰が弱り、寝たきりの生活となる。そして自宅介護をすることになった。

 近所に住む弟と交互に夜は実家で過ごすこととして、昼はヘルパーさんに世話をして貰ってなんとか介護をした。介護生活は夜が地獄である。私は寝不足となって苛々していた。この介護生活は5年続いた。

東日本大震災
 そんな状況下、2011年3月11日、東日本大震災に見舞われる。その日は近所の都立高校へ通っていた息子(長男)の卒業式だった。
私が神保町の事務所から25キロを歩いて家に帰ると、夜11時が過ぎていた。
家には、帰宅困難になった息子の友達が数人おり、妻が車で動き出した電車の駅へ送っていた。

 この震災以降、介護でどんなに忙しくても、私は今まで通りトレーニングを続けた。体を虐めることはある種の精神安定剤だった。
自宅で自転車ローラー台を漕ぎながら、この曲を聴くと涙が止まらなかった。達郎に励まされていた。「運命に負けないで」

 娘2の病気のことも、子供達の受験のことも、仕事も含めて厳しい日々が過ぎて行くが、嬉しいことに子供達は自立して順調に成長していた。
2015年、お袋の病気の進行が何故か止まり、要介護3となり、さらに特別養護老人ホームへ入居できることになった。近所に建設中だった頃に希望を託して申し込んでいたのがよかった。

 娘2の治療も日常生活の中に溶け込み。怒濤の日々はようやく終わった。
そんな状況でこの「ペンギンが教えてくれたこと」を手に取った次第だ。
ここまで読んでくれてありがとう。

ペンギンが教えてくれたこと
 これは実話だ。
オーストラリア・シドニーに住むプルーム一家。写真家の夫キャメロンと妻のサム、三人の息子たちは幸せそのもの生活を送っていたが、ある事故で突然、出口の見えない闇に包まれた。
旅行中にサムが脊髄を損傷する大怪我を負ったのだ。生死をさまよい、何度も絶望の淵に建たされた。彼女と家族の心を救ったのは、怪我を負って自宅に舞い込んだカササギフエガラスだった。その名前はペンギンだ。

希望という名の光

 本は夫が写真家なので、写真が多い。
家族の誰かが、二度と元へは戻らない病気、怪我を負う人生はある。その確率は少ないけど、何故かそんなこともある。それは運命だろう。

 そして、家族の励ましも慰めも無力な時もある。
その時動物を見ると、彼らは怪我しようが、病気になろうが、何時ものように生きていこうとする。その真摯な姿をみると、時には笑っちゃうくらい滑稽でもある。でもこいつらは真剣だ。そんな姿を見ていると折れた心がゆっくりと元へ戻る。

 我が家では、柴犬を娘2が4才の頃から飼っていた。名前はコロ、オス。このコロが娘2の子分として慰めになっていた。
だから、娘2は動物好きで、動物とふれあいが出来れば何時間も一緒にいる。

 私は病気や怪我をした人には「頑張ってください」「大変でしょう」「お気の毒に」などの言葉をかけるけど、家族には言葉が見つからない、相手に合わせて話すだけだ。ヘタなことを言うと喧嘩になる。
それでも「負けるな」とは言うかも知れない。
サムはシーカヤックに挑戦する。

シーカヤックをサムは漕ぐ。

映画 
 この物語は実話として映画にもなっている。私はNetflixで観た。主演はナオミ・ワッツ まだ配信している。(2024年10月24日) 
内容としては、すこしキツい内容の映画だ。常に仲良し家族は無理な相談であることが分かる。誰もがエゴを持って本音で当たればいざこざはある。完璧なハッピーエンドはない。でも未来はある。
「一度きりの人生、運命に負けるな」ってことだ。
映画はオーストラリアの自然の美しさが素晴らしく描かれており、こんな場所に住みたいと思った。


いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集