1月② 冬雲の垂れる深山に坐す石仏(ほとけ)(熊野古道の夜明け@紀伊半島)
写真:「熊野古道の夜明け」by薩摩嘉克
たくさんの伝説的な逸話を残された梅棹忠夫さん(生態学者・民族学者・情報学者・文明学者・未来学者:1920~2010)に『夜はまだあけぬか』(講談社文庫)という著書があります。
その梅棹さんは1984年、突然64歳のときに失明されました。その日の朝の、
「夜はまだあけぬか」
というつぶやきが、そのまま本のタイトルになっているのです。
年齢からすれば、学問研究の生涯の締め括りに手を染めるべき時期でした。そんなときの失明は、人を絶望に追い詰めても不思議はありません。
が、失明という困難をものともせず、梅棹さんは、それまでの著作をまとめて著作集を編むという事業に着手する決意を固めたられたのでした。結果、全23巻という膨大な著作集が完成しました。
そこで翻ると、逆に失明という悲劇に出合われなかったら、もしかすると著作集は完成しなかったかも知れません。というのも、つねに新しい知的創造に挑み続けてこられた梅棹さんは、そうした営為を亡くなるまで続けられた可能性があるからです。彼の知的営為の相当部分を今、読むことができるのは、失明のもたらした賜物なのかも知れないという気がしないでもないのです。
さて現在の日本の、とくに政治や経済には、絶望的と言うほかない暗雲が垂れ込めています。
が、そうした先の見えない闇夜もいつかは明けてくれるのでしょうか。正月に交わされる「おめでとう」の「めで」は、本来「賞賛する」を意味する「めづ(愛づ)」の連用形に由来するのだそうです。そんなふうに「めでる」に値する世の中のよみがえりを願いたいものです。
そんなことを思いながら、こんなコラムをお届けします。
写真:「大門坂@熊野古道」:Wikimediaより
熊野は紀伊半島の南、和歌山と三重県に広がる山深い地域だ。19世紀に紀州藩がまとめた『紀伊続風土記』によると、熊野の「熊」はこう説明される。つまり「隈=遠く奥まった地」に由来するか、古代人が「死者が隠れる」を意味した「隠国(こもりく)」の音が変化したものだと。
その最高峰は2000メートル足らずだ。が、幾重にも重なる山々の連なりは広く深い。で、温暖な気候と日本有数の降雨量がもたらす常緑の照葉樹や針葉樹、落葉樹のブナなどが鬱蒼と繁っている。
その雰囲気は人工空間としての都市の極北に位置する。だからだろう。古くは『日本書紀』でも「自然崇拝の地」とされたのだ。
やがてそこでは熊野三山、熊野本宮大社と熊野速玉大社と熊野那智大社が営まれるようになる。で、天皇から貴族、庶民に至るあらゆる階層の人々の信仰を集め始めた。
そのうち、皇室で最初に参拝したのは平安中期、908年の宇多法皇だとされる。以来、1090年から9回を数えた白河上皇の熊野御幸を契機に、皇后などの女院方や貴族が同行するようになった。で、1281年の亀山上皇の熊野行幸まで、その回数は94回に及ぶことになる。
さらに室町時代には武士や庶民の間でも熊野詣が盛んになる。それは「蟻の熊野詣」と呼ばれるほど驚くほど多数の参拝者を誘致するに至った。さらに江戸時代にも、伊勢詣でと並ぶ参詣者を呼び込み、付近の旅籠には一夜800人の宿泊客が記録されたこともあるという。
こうしてこの地は、熊野信仰という一貫した目的のために1000年以上も使われてきたのであった。
ただ1906年、廃仏毀釈の流れのもとで「神社合祀令」が公布されると、熊野古道周辺の神社の数は激減し、熊野詣の風習も逼塞してしまった。
それからほぼ1世紀、「紀伊山地の霊場と参詣道」がユネスコ世界文化遺産に登録された。このように道路が世界遺産に登録されたのは世界的にもスペインの「サンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路」につぐ二番目の事例となっている。
この道の随所には、さまざまな姿形の石仏などが設置されている。そんな石仏が今、幾重にも重なる山々の彼方に昇り始めた夜明けの陽光を眺めている。それが、将来の曙光の隠喩であってほしいとつい思ってしまうのは、どうにも手放しで「おめでたい」とは言いがたい今どきの日本の世相の故なのだろうか。
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