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「無知と民主主義の倫理」という話
まえがき:政治参加は正しいのか?
政治参加。いまや誰もが政治に参加することの重要性を指摘しているように思えます。投票に行き、自らの意思表明をすること、政治に関心を持ち、SNSでも政治的意見を発信すること、それらは市民としての道徳であるかのようにすら語られるわけですが、果たして、本当に政治参加は良いことなのでしょうか。
私たちが住んでいる国、日本は民主主義の国です。民衆(demos)による支配(kratos)こそが民主主義(democracy)の本質です。我々、民衆は政治に関わり、統治をしなければならない。そのように学校教育でも教えられてきたのではないでしょうか。誰もが投票に行き、政治に関わることが民主主義として望ましいのだと。
しかし、本稿では、このような誰もが政治に参加するというような民主主義は限界が来ていることを、いくつかの統計的事実や政治心理学、政治哲学、政治学などを横断しながら証明しようと思います。
第Ⅰ章:民主至上主義という虚妄
冒頭でも述べましたが、民主主義は民衆による統治を本質とした政治体制です。民主主義では、基本的に誰もが平等に投票権を持ちます。男性であれ、女性であれ、LGBTQであれ、どのような信仰を持っているのであれ、どのような学歴であれ、資産額も職歴も関係なく、基本的には誰もが平等に一票の投票権を持っているわけです。
このように階級などの違いを超えて、誰もが平等に政治参加できるということは一見素晴らしいことに思えます。実際、経済学者のジョン・スチュアート・ミルは、誰もが政治に参加できるようになることで、高い意識を持ち、政治について勉強し、人々は高潔になると考えました。
ミルは、政治に関与することで人々がより賢くなり、共通善にさらなる配慮を払い、もっと教養を備え、いっそう高潔になることを期待した。工場労働者に政治について考えさせることは、海の外に世界があることを魚に発見させるようなことだと考えたのである。ミルは、政治参加によって私たちの精神が鍛錬される一方で心は柔軟になることを期待した。政治参加によって私たちが目先の利害関心の向こうを見据え、長期的で広い視野を採り入れるようになることを期待したのである。
たしかに、誰もが政治について関与することで、より幅広く関心を広げ、同時に広い視野を持つようになっていくとも考えられます。しかし、本当にそうなのでしょうか。
私たちの国でもそうですが、「どうしてこんな人に投票する人がいるんだろう…」と言ったことや、「明らかに、悪質な政治的デマなのに、どうしてデマを拡散しているんだろう」というような、言葉を選ばず言えば、明らかに民主主義に関わっている民衆の中にはバカもいます。
本当に誰もが政治に関与していくことで、人々は賢くなどなるのでしょうか。ミルのこうした政治観は、どこか楽観的すぎて現実離れしているようにも思えます。実際、同じく経済学者のヨーゼフ・シュンペーターは、こう語っています。
「典型的な市民は、政治の現場に出るやいなや、知的パフォーマンスがより低レベルなものへと落ち込んでいく。彼は、自分が本当に関心を有する領域で行われたならば容易に幼稚だと認識できるような仕方で、議論や分析を行う。彼は再び未開の存在になるのだ」。
ミルは、大衆が政治に参加する権利を得たことで、人々が賢くなることを期待しました。一方、シュンペーターは、大衆は知的レベルが低く、政治に参加させたところで衆愚政治にしかならないと強く批判したわけです。
さて、本稿では、残念ながらシュンペーターの予測のほうが正しかった、つまり民主主義は衆愚政治だったということを様々なエビデンスを示すことで証明していこうと思いますが、エビデンスについて詳しくは後述します。
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