女性が「産む機械」になる近未来の物語:「侍女の物語(Handmaid's Tale)」とその続編「誓願(The Testaments)」
悲しいかな、年をとるにつれていわゆる自我が確立する(もしくは確立しているのだと思い込むようになる)につれ、小説の世界に没頭する経験が得難いものになりつつある。情報を受け入れようとするたび、経験によって形作られた自分の価値観がやたらと顔を出して、純粋な咀嚼を邪魔するのである。かかる中で、Handmaids’ Tale(侍女の物語)とその続編The Testaments(誓願)は久しぶりに寝食も惜しんで読みふけってしまうような作品であった。つい最近までは朝から晩まで仕事だったので、この本に触れることができる毎日の通勤時間とお昼休憩が何よりも楽しみであった。
それぞれのあらすじは以下の通り。
侍女のオブフレッドは、司令官の子供を産むために支給された道具にすぎなかった。彼女は監視と処刑の恐怖に怯えながらも、禁じられた読み書きや化粧など、女性らしい習慣を捨てきれない。反体制派や再会した親友の存在に勇気づけられ、かつて生き別れた娘に会うため順従を装いながら恋人とともに逃亡の機会をうかがうが…男性優位の近未来社会で虐げられ生と自由を求めてもがく女性を描いた、カナダ総督文学賞受賞作。
〈侍女〉オブフレッドの物語から15年後。
〈侍女〉の指導にあたっていた小母リディアは、司令官たちを掌握し、ギレアデ共和国を操る権力を持つまでになっていた。
司令官の娘として大切に育てられるアグネスは、将来よき妻となるための教育にかすかな違和感を覚えている。カナダで古着屋の娘として自由を謳歌していたデイジーは、両親が何者かに爆殺されたことをきっかけに、思いもよらなかった事実を事実を突きつけられ、危険な任務にその身を投じていく。
まったく異なる人生を歩んできた3人が出会うとき、ギレアデの命運が大きく動きはじめる。
奇しくもわが国にも確か10年前くらいに「女性は産む機械」と表現した厚労相がいたやに記憶しているが、侍女の物語とその続編The Testaments(誓約)ではまさに社会が女性を産む機械(=侍女)として扱う未来のアメリカ、クーデターにより成立されたキリスト教原理主義国・神秘主義国であるGileadの姿が描かれている。
簡単に言えば、物語世界の中で女性は①妻になるか(=Wives/Econowives)、②家事をするか(Marthas)、③(上流階級である妻Wivesが不妊の場合)子供を産むか(Handmaids)、④女性たちの指導役になるか(Aunts)のどれか一つしか選ぶことが許されないなど、他のディストピア作品と同様強烈な描写が続くが、この作品世界から乖離しているとは決していえない現実世界のことを思うと、常に物語に私の腕を掴まれているような心持ちで向き合わざるをえないのであった。つまり、一作目の侍女の物語が発表されたのは1985年だが、その後Gileadに似たようなISIS(キリスト教ではなくイスラム教だが)が現実の世界に登場したり、各国で極右政権や反知性・科学主義が台頭するなどのマクロなスケールでの類似性が認められることはもちろんのこと、1人の女性として私が大人になるまでに経験してきた息苦しさ、差別、そしてこれから直面するだろうそれらについて、ミクロ視点からも、この物語が決して絵空事ではないことを認めざるをえないのである。
一作目の「侍女の物語」は語り手である主人公の侍女オブフレッドの絶望的でかつその孤立無援な心理を反映した、陰鬱な雰囲気を纏っており、読み進めるのが本当に苦しかったが、二作目は全く異なるものだった。
二作目は理知的な小母リディア、司令官の娘として育てられるアグネス、カナダの古着屋の娘であるデイジーの三者により代わる代わる語られ、その登場人物の性格や社会的地位を踏まえると、一作目に比べて明るい語り口が特徴的である。
また、一作目では、主人公の侍女から他の女性は主に敵対や抑圧をする存在として描かれていたが、この点についても二作目はは異なっている。この女性同士の区別という要素は、ギレアド政府としては(アパルトヘイトなどこれまでの歴史でのプラクティスと同様)、被征服者間の断絶を産むことこそが制度として女性に対する差別を強固にする意図があったのだろうが、二作目では女性同士の個人個人としての結びつき、紐帯という要素が加わり、これがこの陰鬱な世界を変革する切り札として描かれている(ネタバレにならない範囲では、一作目では共感しづらい人間として語られていたMarthaたちと比べて、二作目で司令官の娘であるアグネスから語られるMarthaたちは人間的で愛すべき人間としてその存在を表していることが大きな変化としてあげられるだろう)。一作目では、個人としてただ抑圧され、その運命を受け入れ、その苦しみが閾値に達するまで耐え忍ぶのみだった女性が、二作目では他人に心を開き、その苦しみを分け合い、緩やかな紐帯を結んでいくーーこれは一作目になかった要素であり、この”切り札”によってその世界が少しずつ良い方に向かっていく仄かな予感が、物語世界の全体を取り巻いている点も特筆すべきである。
映画でも小説でも真に良い作品は一言では形容できないものと思うが、この作品について思うことを整理できるようになるまでには、どのくらいの時間がかかるのだろうと思う。また咀嚼ができたら、改めて文章を書きたいと思う。
(冒頭の写真:The Hulu series The Handmaid's Tale is filmed on the National Mall in Washington, D.C. on February 15, 2019. Photo by Calla Kessler for The Washington Post via Getty Images.)