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アブサン【4】



空気が固まった。
まさか拳銃を持っているなど、
微塵も考えていなかったのだろう。
その固まった空気は一瞬にしてゼラチンの如く柔らかくなり、
男たちの笑い声に変わった。

5人の声が1つになって、ゲラゲラと聞こえる。
品の無い、大きな笑い声だった。
荒い声が高架下でこだまする中、
右後ろに居たジャージの男が、腹を抱えながら叫んだ。

「それで俺たちに何をするってんだ。
おもちゃだろ、それ。どう見ても」

ずっしりと心強かったそれが、
突然空虚の如く軽くなったように感じた。
先程までの虚勢は何処かへ消え、
残るのは恥でも無く、焦燥だった。

ただ、ほんの僅かに希望はあった。
何故なら、そんな筈は無いのだ。

あの先輩が、俺をからかうために
仕事をふっかけてくるとは思わなかったのである。
おもちゃをやり取りさせる為に
あんなにもやつれた顔をして冗談を言うだろうか。

「…これは本物だ!」

俺は再び拳銃を構えた。
実際自分でも、両手でしっかりと握っているそれが、
既におもちゃにしか見えていなかった。
再び虚勢を取り戻すことは、最後の賭けでしか無かった。
見えない筈の自分の瞳が、しっかりと開き切っているのが分かる。

奴らの笑いが止まった。
また一歩、ハンドガンを持った男が近付く。

「引き金を引け」

全員の視線が俺に向いた。
口角はもう、少しも上がっていない。
男の言葉と共に他の4人が、果物ナイフを取り出して構えた。
櫻子の叔父が来る時間まで、30分ある。
時間を稼ぐには長かった。
手元が震える。

"引き金を引くか、櫻子を差し出すか"

選択肢は2つだった。
俺は連中の視線を浴びながら、静かに口を開いた。
ゆっくりと拳銃のスライドを引く。

「…櫻子は…スーツケースを持った女は…」

男たちが、目を見開いたのが分かった。

高架下は、轟々と得体の知れない音が鳴り続けている。
次の台詞を待つように、男たちは黙っていた。

「…あの女は、俺の金だ!」

その台詞を終えるまでも無く、
俺は勢いよく引き金を引いた。

火薬臭い。
銃口から飛び出る音は、ドラマで聞いたことがあった。
全ての音を封じるような甲高い音だ。
目の前で火花が散ったような衝撃に、
思わず後ずさる。

万が一本物の弾が入っていれば、
ハンドガンを持った男は間違いなく血しぶきが飛んでいた。
それくらい、初めてにしては上出来な腕前だった筈である。

先輩は期待を裏切った。

銃口から勢い良く飛び出た無数の紙吹雪と
まるで手品のように連なった国旗が、
俺たちの周りを突如として華やかにした。
BGMがあれば、それは立派な曲芸だった。

同時に頭から血の気が引くのが分かった。
血が足りないと、身体は震えるし目眩がする。
男たちはそのオメデタイ空気を全く笑わなかった。
ただニヤリと意地の悪そうに嘲笑うだけだった。

「残念だ。親切にも忠告してやったというのに」

俺は滑稽にも国旗の連なる銃を振り下ろしたまま、
立ち尽くすことしか出来なかった。
ハンドガンの男は銃をしまって、他の男たちに顎で合図をした。

「こんな奴に銃を向けるなんて、勿体ないことをしてしまった」

獲物を見つけたハイエナのように、
男たちはジリジリと近寄ってきた。

「どうせ女もこの辺に隠れているんだろう」

心底格好悪かった。
俺は所詮、300万の価値もない男である。
あの女を守ってやろうと思った一瞬の良心。
それすらも浄化すること無く泡となって消えた。
人生の行き止まりである。
逃げようとも思えなかった。

「待て」

刃物を向けた連中を引き留めたのは、
あろうことかその中の1人の男だった。

男は他の奴らを右手で制したまま、
ただ俺に近付いてきた。
男の目から鋭さが消えていた。

男が触れたのは俺ではなく、
おもちゃの拳銃だった。
男は連なる国旗を指で辿った。
動きが止まった時に触れていたのは、
国旗に混ざった一枚のメッセージカードだった。

「…お前、井上一樹の知り合いか」

井上一樹。
名前にはピンと来なかったが、心当たりはあった。
目元にクマのある、不健康な男。
弁当工場で仕事を吹きかけてきた先輩だった。

男たちの顔色が突然変わるのが分かった。
ナイフを持った4人は顔を見合わせながら、静かに後ずさる。
指示を出していたハンドガンの男が、また顎で残りのメンバーに合図した。

「出直しだ」

5人が一斉に踵を返す。
俺は身体の力が抜けて、ヘタヘタと地面に座った。
それから男たちは、一度も振り返らなかった。

メッセージカードは、特別何か書かれている訳ではなかった。
暗号のような崩れた文字はとても名前には見えなかったものの、
それ自体が井上一樹を表しているらしかった。
俺は井上という男がこの界隈でどれだけ有名なのか知る由もなかった。
ただこのミッションを達成出来なかった時点で、
俺は2度と弁当工場の敷居を跨げないことは悟った。

俺はひとまず、まだ力の入りきっていない膝を無理やり立たせて
彼女の待つバーへと戻った。
バーの中は静かだった。
既に店内は足元が見辛い程に暗くなっていたが、
彼女は明かりもつけず、
先程と同じ場所でじっと座っていた。

「あの男たちは…」

彼女の不安そうな声に、
危うく抱き寄せても不思議では無かった。
そうさせなかったのは、彼女の持つ見えない壁が、
一定の距離を阻んでいたからである。

「逃げたよ」

説明しようにも難しく、曖昧な返事で場を濁してしまう。
それでも彼女の表情は安堵という言葉そのものであった。

「ありがとうございます」

座りっぱなしだった彼女はようやく立ち上がると、
俺に近づき握手を求めた。
長時間同じ場所に留まっていた彼女の手は冷たかった。
俺は普段の握手より少しだけ、力強く返した。

「じゃあ悪いが、300万」

命が助かった上に無傷で金まで貰えるとは儲かり物である。
彼女はポケットから小切手の束を取り出すと、
一番上のページに数字を書き始めた。

「ところで何故、あの人たちは私の居場所が分かったと思いますか」

彼女はその紙切れを破ることに、
何も抵抗が無いようだった。
まるでメモ帳の切れ端とでも言うように勢い良く破いたそれを、
俺のパーカーのポケットにクシャクシャに突っ込んだ。

「私は怖いです。
何かの虜になる大人を見るのが。
彼らはどれだけの信頼を失っても気づかないんですもの」

『虜』が何を指しているか、考えるのには容易だった。
そう台詞を吐いた彼女の片耳に、ピアスが3つ付いているのに気がついた。
寒気がした。
彼女の言葉に、掴みどころの無い存在に。


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