アブサン【1】
人はその酒に酔いしれる。
すっかり虜になった俺は、
その姿や瞳から、2度と目を離せないのであった。
♢
初めて降りた駅は、とんでもなくうるさかった。
うるさい、といっても大きな音が永遠と耳を劈いている訳ではない。
意味のない不快な音が、右へ左へと飛び交っていた。
雑音の殆どがゲームセンターやカラオケ店のBGMで、それだけでも利用者の年齢層と治安の悪さを表している。
ガヤガヤと、意味を成さない音が羅列する駅前で
俺は既に40分も佇んでいた。
寄り道する学生に時間を合わせているのか、
焼きたてパンの匂いがうっすらと漂っている。
足はジンジンと痛い。
それでも俺は座る事も、場所を移動することもしなかった。
ワイヤレスイヤホンを付けてキョロキョロと辺りを見回すが、
再生ボタンを押していないスマホは曲のひとつも歌いやしなかった。
あくまでも騒音の中に混ざっている必要な情報を得るために、
通行人の1人に成り済ますファッションであった。
この所作が正解なのかは分からない。
服装も気を付けてきたつもりではあったが、
赤いパーカーは少々目立ち過ぎだったかもしれないと誰に言うでもなく反省していた。
ようやく白髪混じりの男が改札をくぐって出てきたとき、胸が少しだけ昂った。
学生服を着ている子どもたちの中で
同じ時間の電車を降りた老人は、その1人だけだったからだ。
間違いない。
息を飲んで、老人の動向を見守った。
老人は、杖をついて歩くものの足腰はしっかりしているようにも見えた。
俺が立っている場所からはちょうど正面に位置するベンチに座り、
袖が無いベストのポケットに入っていた缶コーヒーを取り出した。
携帯電話では無かった。
合図はまだだ。
だんだんと鼓動が早くなってくる。
紙袋を持っている右手が小刻みに揺れた。
俺は今日、犯罪者になる。
−ターゲットの女に、紙袋を渡すこと−
先日まで、真っ当に工場で弁当の具材を詰めていただけの俺である。
『真っ当に』と言ったが、同じバイトをしている連中は朽ち果てた見た目の奴が多かった。
そいつらの履歴書を見たことは無いのに、顔が前科を語っていた。
そして顔つきで物を言うならば、俺も例に漏れることは無かった。
とにかく金が欲しかった。
それでも悪に手を染めきれずにいた俺は、
やりがいも生きがいも無いこの場所で、毎日働くだけだった。
弁当を詰める連中には、1人ずつ役割が与えられている。
昼間も薄暗い工場の中で、
白い防護服のような制服を身に纏いながら
コロッケを入れる係。
米を盛る係。
米に黒ゴマを乗せる係。
この工場内でコロッケの係は花形と呼ばれている。
しかし、それは語尾にカッコワライ、が付いているような物で、
その役割を喜んでやるようなバカは居なかった。
寧ろ喜ぶべき所でも口角が上がらない、
捻くれ者か裏切り者しかいないような職場だ。
ただ一日中、コロッケばかりを見つめている。
ゴマだって然りだ。
それでも俺たちは、このつまらない空間から抜け出せないでいる。
抜け出して待っているのは、ここよりも肩身の狭い、窮屈な世界なのだ。
俺は一刻も早く脱出をしたかった。
脱出をする権利は、まだ得られないでいた。
バイトの昼休みは、毎日12時ぴったりに訪れる。
賄いという名の余り物が支給される為、
貧乏な仲間たちと共に少し乾いたキュウリの漬物を貪る。
俺たちは、上手いも不味いも言わない。
ただ決められた時間に、決められた物を口に入れるだけである。
黙々と飯を食って、それから屋上にある喫煙所で一服しているところだった。
空が嫌味な程に澄んでいた。
俺らを見下す空の天気が良ければ良い程、
工場の中は空気が悪かった。
「金さえあれば」
タバコの煙は、上げれば上がるほど薄く消えていく。
空を汚している気分だった。
また強く煙を吐いた。
「おいお前、金が欲しいのか」
突然声を掛けてきたのは、少し離れてタバコを吸っていた先輩だった。
年齢は知らない。
名前も知らない。
声を聞いたのも初めてだった。
彼が工場に入ってきたのも、随分と最近なのだ。
それでも周りでゴマを擦る奴らが「先輩」と呼んでいるから先輩だ。
彼は皆から恐れられている人物だった。
『昔は人を平気で血塗れにしていたらしい』
『3回刑務所に入ったらしい』
『刑事にコネがあるお陰で、幾つもの事件を煙に巻いてきたそうだ』
どこから吹いた噂かは知らないが、
無意識にも彼の話を耳に挟むことは頻繁であった。
「…だとしたら?」
昼休憩の終わるチャイムが鳴った。
俺が仕事場に戻ろうとすると、
先輩は後を付いてきた。
「幾ら欲しいんだ」
一瞬戸惑った。
いつ見てもクマの濃い先輩である。
それから彼は返事も待たず、誰にも言うなと耳打ちしてきた。
「どうだ、俺が指定した女に荷物を渡すだけで大金が手に入るとすれば」
金額の指定はしなかった。
だが彼の表情は、なんら冗談を言ってるような顔では無い。
「上手くいけば、自由になる額は手に入る筈だ。
お前はもっと羽ばたくべきだと、俺だって常々思っている」
誰にも言ったことのない下らない野望が見透かされていた驚きに、緊張感を覚えた。
ただの睡眠不足では無く、身体に悪そうな目元をした男である。
タバコの匂いがツンと鼻の奥に響いた。
『合図と共にすれ違う女に紙袋を渡す』
先輩は、上手くやれば大事にはならないと言った。
「丁度代わりになってくれる奴を探してたんだよ。
いやあ、良かった良かった」
♢
少し冷たい風につられ、クシャミを1つしたところで我に返った。
品の無い笑い声が、今でも脳内をフラッシュバックしている。
後悔が全身を包み込む。
俺は収入の高いバイトという名目で、案件を引き受けてしまったのだ。
紙袋の中身は頑なに教えて貰えなかったが、
それが即ち犯罪に直結することは、容易に想像できた。
紙袋を覗く。
中身も見えないように、新聞紙で何重にもぐるぐると巻かれている。
重さでいえば、銃か鈍器か。
そう思えば思うほどに、そうとしか思えないのであった。
薄らと寒く震えた身体とは対極に
不思議と止まらない額の汗を拭いながら、
不自然にならぬよう意識して老人を見つめ続けた。
先輩の言っていた合図が、この老人だった。
罪悪感とか背徳感とか、大きな感情が幾つもいっぺんに押し寄せる。
紙袋を持った手に力を入れて、老人の合図を待った。
慌てることなくゆっくりとコーヒーを飲む老人は、
ターゲットが来るのを待っていたのかもしれない。
電車が行ってしばらくすると人通りも少なくなり、
俺と老人以外、人は見当たらないでいた。
すっかり油断していた。
辺りに人は居ないし、唐突に合図がやってくるとは思っていなかったのだ。
待ちくたびれた俺は一度スマホを取り出して、
SNSの通知を確認したところだった。
今日になって先輩は、1度も連絡をくれなくなった。
あとは俺の裁量に任せているといったところだろう。
溜息をつきながら顔を見上げると、
老人は既に古びた折り畳み式の携帯電話を手に持っていた。
合図だ。
心の準備が足りなかった。
心臓が、大きく1つ飛び跳ねたのを自覚した。
その時はやってきたのだ。
しかし、肝心の相手は見当たらなかった。
それらしき相手は誰もいないというのに、
老人は携帯電話を耳にあてた。
ここまでの体感時間は、実に一瞬であった。
俺は目的の相手を探す為、大きく一歩踏み込んだ。
その時である。
「あのぉ、すみません」
突然後方から、可愛らしい声が聞こえた。
振り返ると、女がスマホを片手に、
もう片方にスーツケースを転がしながら近づいて来ているところだった。
スーツケースはかなり大きく、女自身が入っても不思議は無かった。
明らかに動揺してしまったのが、自分でも分かった。
女はあまりにも可愛かったのだ。
網目の大きな白いニットを着ていて、冬の始めにはぴったりなチェックのミニスカート。
おまけに茶色のロングブーツ。
犬みたいにクリクリとした瞳は、
その辺にいる若い女そのものであった。
想像していた強気の女とは、程遠い。
「道を聞きたいんですけど…」
俺は困惑した。
これは例の相手なのか、それとも本当に道に迷っているというのだろうか。
チラッと老人の方に目を向けたが、老人は既に居なかった。
彼の素早い動作は、只者では無いことを表していた。
そして今俺を助けてくれる者は、もう誰も居ないのだ。
「この場所に連れて行って貰えませんか?」
女は俺の目の前に、スマホの画面を差し出した。
地図は路地裏の怪しげなバーを指している。
この時ようやく、女の魂胆に気がついた。
駅前で怪しい行動をせぬよう、他の場所に導いているのだ。
女は俺の目を真っ直ぐ見ている。
俺はゆっくりと頷いた。
もう後には戻れない。
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