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生木を裂く。愛するがゆえに弱くなる女心
待ちに待った本が届いた。
茨木のり子の詩集、『歳月』だ。
絶版になっていて、今は古書しか手に入らない。その古書も出版当初の価格の4倍以上となっている。
けれどまったく躊躇しなかった。どうしても読まねばならない、今わたしに必要なものだと、考えではなく行動が語っていた。
待ちに待ったといっても、この本の存在を知ったのはつい最近のことだ。知って、すぐに入手したことになる。
気になっていた原稿とこの本が、繋がった瞬間だった。
『茨木のり子の家』という写真集がある。
暮らしていた頃と、ほぼそのままの状態で今もあり、作家の旧宅として公開されるでもなく、ひっそりと50年間の時を刻んでいるという。
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この本の中に「Y」とマジックペンで書かれたクラフトボックスの写真がある。もうこれだけで秘密の匂い、特別なものが感じられるが、蓋を開けると中には原稿用紙が入っている。
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写真を見る限り、夥しい量に思われる。
同著の125ページには各ページの写真についての説明が書かれているが、そこは私の間抜けなところで、写真に見入るばかりですっ飛ばしていた。今、確認してみると、ちゃんとこんなふうに書いてある。
没後発見された無印良品の箱には、夫への想いを綴った未発表の詩40編が収められていた。「Y」は夫・三浦安信のイニシャル。2007年詩集『歳月』として出版された。
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キャプションを読んでいたら、その時わたしは『歳月』を買い求めただろうか。
おそらく、いや、決してそうはしなかっただろう。
あくまでも「今」だから、どうしてもという想いで購ったのだ。そして、それはまったく確かなことだった。
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届いて、封を開けて、もどかしいような気持ちで本を開いた瞬間、虚を突かれて息が止まった。
最初の一編。ご主人を亡くされた直後に書かれたとおぼしき詩は、無音の時が流れていた。それはまるで静止したような、深海にいるような感覚だ。悲しみが大きすぎて、もはや自分が何を感じているのかわからない。涙さえ流れない、頭の中には真綿がぎっしり詰まっているような・・・
なすなく
傷ついた獣のように横たわる
落語の「王子の狐」のように参って
子狐もなしに
夜が更けるしんしんの音に耳を立て
あけがたにすこし眠る
陽がのぼって
のろのろと身を起こし
すこし水を飲む
樹が風に
ゆれている
生々しい悲しみが今も鮮やかにそこにあり、私はもう、「捕まれて」しまった。
続く「その時」には、こんなくだりがある。
どちらが先に逝くのかしら
わたしとあなたと
そんなことは考えないでおこう
医師らしくもなかったあなたの答
なるべく考えないで二十五年
銀婚の日も過ぎて 遂に来てしまった
その時
生木を裂くように
生木を裂く。
その言葉にさらに不意打ちされて、わたしはたじろぐ。
驚いたのは、愛する人の不在とそれに伴う悲しみが(もはや「悲しみ」という言葉を使うことさえ憚られるが)、肉体に起きることだった。
ふわりとした重み
からだのあちらこちらに
刻されるあなたのしるし
ゆっくりと
新婚の日々よりも焦らずに
おだやかに
執拗に
わたくしの全身を浸してくる
この世ならぬ充足感
のびのびとからだをひらいて
受け入れて
じぶんの声にふと目覚める
隣のベッドはからっぽなのに
あなたの気配はあまねく満ちて
音楽のようなものさえ鳴りいだす
余韻
夢ともうつつともしれず
からだに残ったものは
哀しいまでの清らかさ
やおら身を起こし
数えれば 四十九日が明日という夜
あなたらしい挨拶でした
千万の想いを込めて
無言で
どうして受け止めずにいられましょう
愛されていることを
これが別れなのか
始まりなのかも
わからずに
四十九日は故人が最後の審判の日であり、いよいよ浄土へと旅立つ日。「この世」の存在から「あの世」の存在へとなる日だ。その前日に、まるで最後の別れを告げに来た。夢は夢でありながら、それとて現実にほかならない。愛する妻を抱きにおとずれた夫の霊は、肉体を超えて愛撫し名残を惜しんだのだ。
なんということだろう。胸が張り裂けそうになる。
二十五年も連れ添って、つまらない喧嘩もしただろう。意地の張り合い、そっぽを向いて、口も聞かない数日間。そんなこともあったかもしれない。
けれど子どものない夫婦二人の生活で、きっと仲睦まじかったのだろう。失った後、その姿はむしろ生前よりも鮮やかに立ち上がる。
いまも
目に浮かぶ
蒼白の光を浴びて
眠っていた
あなたの鼻梁
頬
浴衣
素足
けれど それ以来
わたしには見えるのです
ユカタに兵児帯のあなたが
いつか来るわたしを待って
この世とは別の時間を
悠々と散歩している夏姿が
この手はまだ覚えている
あなたの質感のすべてを
日ごと夜ごと
顔見合わせている
古女房なのに
待合わせのときには
なぜあんなにもいそいそと
うれしそうに歩いてきたのか
姿を見つけると
こちらが照れるほどに
笑いながら
あちらこちらの町角に
ちらばって
まだ咲いている
あなたの笑顔
いろんな町の辻々
七年(ななとせ)を経たのちにも風化せず
いえ
いま咲きそめの薔薇のように
わたくし一人にむかって尚も
あらたに ほぐれくる花々
姿がかき消えたら
それで終わり ピリオド!
とひとびとは思っているらしい
ああおかしい なんという鈍さ
みんなには見えないらしいのです
わたくしのかたわらに あなたがいて
前よりも 烈しく
占領されてしまっているのが
七年の時が流れ、十年の時が過ぎる。
おそらく何食わぬ顔で日常を送っていたにちがいない。甥御さんにあたる宮崎治氏は、いつも変わらぬ様子で迎えてくれたと綴っている。
茨木のり子といえばリベラルな詩人であり、それだけに「強い女」というイメージがある。実際、詩人・文化人としての茨木のり子は強い女だったにちがいないし、自身もきっと自認されていたのではないかと思う。
その顔はきっと、ひとり生きていく上での支えとなり得ただろう。けれど夫を失った哀しみは大きすぎて支えが機能したのかどうか。
支えを取り払ってみれば、あまりにも弱くもろい自分がそこにいる。
愛が消えていない。消えていないどころかむしろ深まってゆく。愛すれば愛するほど、くずおれんばかりに弱さが露呈する。
肉体をうしなって
あなたは一層 あなたになった
純粋の原酒(モルト)になって
一層わたしを酔わしめる
恋に肉体は不要なのかもしれない
かれど今 恋いわたるこのなつかしさは
肉体を通してしか
ついに得られなかったもの
どれほど多くのひとびとが
潜って行ったことでしょう
かかる矛盾の門を
感乱し 涙し
いったい、女の強さとはいかなるものなのだろうか。
今だったら、どんなふうに受け止められるのだろう。四半世紀あまり連れ添った夫婦は、必ずしも良い関係ではないことが多い中で、「たかが夫を失ったくらいで」などと思われるのだろうか。
もしそうだとしたら、そんなふうに思えることが、女の強さなのか。当然、そうではないだろう。それ以前の、次元の異なる話になる。
やがて茨木のり子は、すぐにでも夫の元へ旅立ちたいという想いを抑えられなくなる。
急がなくてはなりません
静かに
急がなくてはなりません
感情を整えて
あなたのもとへ
急がなくてはなりません
あなたのかたわらで眠ること
ふたたび目覚めない眠りを眠ること
それがわたくしたちの成就です
辿る目的地のある ありがたさ
ゆっくりと
急いでいます
なぜこれほどまで純粋な想いを抱き続けることが出来たのだろう。「愛は三年で冷める」とは世間一般で言い習わされており、今や心理学や脳科学的にも裏づけようという勢いだ。
裏づけのためのエビデンスは、大多数の夫婦やカップルを対象に行われるだろうから、きっとそうなるにちがいない。
けれど中には何年も何十年も愛し合うふたりがいるのではないか。これは、少女じみた幻想なのだろうか。
もしそうだとしても私は信じたい。
おたがいに
なれるのは厭だな
親しさは
どんなに深くなってもいいけれど
三十三歳の頃 あなたはそう言い
二十五歳の頃 わたしはそれを聞いた
今まで誰からも教えられることなくきてしまった大切なもの
おもえばあれがわたしたちの出発点であったかもしれない
(中略)
そのあたりから人と人の関係は崩れてゆき
どれほど沢山の例を見ることになったでしょう
気づいた時にはもう遅い
愛にしかけられている怖い罠
おとし穴にはまってもがくことなしに
歩いてこられたのはあなたのおかげです
親しさだけが沈殿し濃縮され
結晶の粒子は今もさらさらとこぼれつづけています
愛が壊れやすいものであることは確かだ。
そんなに強靱なものではない。
詩人の心を持っているならば、ごくわずかな変化にも敏感に反応し、心を守るための防御策を用いただろう。
ご主人は、そのあたりの機微をわかっていたのかもしれない。ともすれば茨木のり子よりもずっと。それが、愛する女を守る行為であることを、Y氏は自覚していたのかどうか。
頭で考えてそうしたかどうかはわからないけれど、妻との関係をよきものとし、生涯、愛を育てていこうと決意したようには見える。男らしい覚悟があったのだろう。
少なくとも「愛にしかけられている怖い罠」があることを熟知し、それには決してはまらないようにしようと促し、促しただけでなくまずは自分が注意深くあったにちがいない。
そんな夫婦関係は窮屈だと言う人がいるかもしれない。
その発想がもう罠にはまっている。
夫婦関係は窮屈なのではなく、ある種の繊細さが伴うのであり、そうしたことが面倒だと感じる愚鈍さが我が身をおとしめているのだ。
二十五年の月日が流れ、彼女は哀しみとも仲良くなっていく。まるでご主人と手を携えているかのように。
真実を見きわめるのに
二十五年という歳月は短かったでしょうか
(中略)
けれど
歳月だけではないでしょう
たった一日っきりの
稲妻のような真実を
抱きしめて生き抜いている人もいますもの
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