
【ラムリムにおける統合!?】キリストの道、菩薩の道、バクティ・ヨガ、密教、瞑想 / もし神が存在するのなら、どこに?
このように考えると、いろいろと都合が良いとする思索のメモです。
BGMはバッハの幻想曲とフーガ ト短調BWV542(大フーガ)

概要
まとまってないメモであり、長文なのでAbstractを。
・キリストの道、菩薩の道、バクティ・ヨガ(親愛の道)これらは、精神性や実践、体験において同じようなものが含まれているのではないか?
・つまり「霊性」において自我(エゴ)を取り除くこと、もしくは、自らを捧げるということにおいて、同じようなものなのではないか?
・このことは瞑想(生命エネルギーの実践、密教)にも通じるものなのではないか? → 顕密統合
・霊性の道、霊的実践ということでも、社会・世俗との関係性を考慮すべきなのではないか? → ラムリムにおける統合へ?
・自我を放棄する、自らを捧げるというものと、「内なる神」「一なる神」という思想を関係づけるのも面白い。
キリストの道
・「主なる汝の神を愛し、汝の隣人を汝自身のごとくに愛せ」というのが、「律法」の中で最も重要なものとイエス自身が述べたと聖書にある。
・その最も重要な律法の教えにおいて、自らを捧げるというのが「キリストの道」なのではないか?
・イエスの磔刑、復活というのは、自らを捧げ「神」において生きるという思想をあらわしているのではないか?
・現代日本人にとっては馴染みのない残酷にも思えるものだけれど、「犠牲によって、血を流すことによって、罪は償われる」というユダヤ教の思想の伝統上の表現なのではないか?
・特殊な思想 信仰のグループ?
新約聖書と旧約聖書では思想が違いすぎます。
これに関して、当時、特殊な思想・信仰グループがあって、その思想、信仰が新約聖書の福音書や「イエスの言動」に反映したのかもしれないなぁと私は妄想してます。
「イエスの神話」を形成したグループというわけです。
もちろんこれは何の根拠も無いロマンチックな妄想です。
関連note:愛(慈悲、四無量心、利他・愛他)の実践。イエス・キリストの物語 >> 【余談】イエス・キリストの物語
その特殊なグループというのは、直接的な体験(意識体験、宗教的体験、神秘体験)を重視するような修行もあったのではないでしょうか?
瞑想を含むようなものです。
秘儀・密儀宗教のようなこともされていたのかもしれません。
“ 自分を捨て、自分の十字架を背負って、私に従ってきなさい。
自分の命を救おうとするものはそれを失い、私のために自分の命をうしなう者は、それを見いだすであろう。”
“あなたがたによく言っておく。わたしの兄弟であるこれらの最も小さき者に為したことは、すなわち、わたしに為したことなのだ”
“あなたがたの中で罪なき者が、まず(その罪人に)石を投げよ”
例えばこれらのイエスの言動は、その特殊なグループで培われていた思想が反映したのかもしれません。
特殊な思想グループがあったのではとするのは、もちろん私のオリジナルのアイデアではありません。
スピリチュアル系の話には、イエスの所属したグループとして「ホワイトブラザーフッド(聖白色同胞団)」「エッセネ派」「クムラン教団」などが登場してきます。
そういったのでは、イエスはインドにまで修行に行ったというのもあります。
関連して面白いのだと、エジプト、ギザの「大ピラミッド」は、クフ王の墓ではなくて、当時存在した秘儀・密儀宗教の修行や儀式のための施設であって、イエスもそこで秘儀を伝授されたというのがあります。
以前、瞑想やヨガ、スピとかに詳しい人に聞いたことがあるのですが、大ピラミッドの「王の間(定説では玄室とされてます)」で瞑想したら神秘体験、異様な体験をしたという話・噂話がけっこうあったりするようです。

引用:Wikipediaより
面白そー。歴史のロマンですね。
・自らを捧げるという思想
「磔刑にされたイエスは "自我" を象徴する」という思想は、いろんな人によって表明されているようです。
鈴木大拙もそんなことを言っていたような いなかったような、、、?玉城康四郎だったかなー、、、?
「自我が磔刑にされる」というのは、なかなか東洋的な、仏教的な説明です。
旧約聖書では、神への捧げ物として「燔祭」など動物の犠牲の話が出てきます。
イエスの磔刑もこういった文脈上にあるもので、(贖罪のための)文字通り「捧げ物」というわけです。
(人間を燔祭にするというのは、現代日本人にはかなり野蛮残酷に思われ理解に苦しみます。聖書における前例的なものは「イサクの燔祭」です)
「イエスの神話」に関係する特殊な思想グループでは、瞑想や秘儀・密儀宗教的な修行の体験を通して、「自らを捧げる」という思想・信仰が強固に形成されていったのかもしれません。
もちろん仏教とキリスト教では、教義・信仰が違います。
しかし「内的な体験」としては、「無我・非我」「自我(エゴ)の除く」というのと「自らを(燔祭として)捧げる」というのは、通じるところがあるのではないでしょうか?
ちなみにこの「燔祭」は、犠牲となった動物の肉は「焼き尽くされる」ものです。
“ わたしのいましめは、これである。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい。
人がその友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない。 ”
「菩薩の道」と「バクティ・ヨーガ」と「キリストの道」 ――― それは「愛」?
・「キリストの道」と大乗菩薩の道、さらに、バクティ・ヨーガというのは同じようなものなのではないか?
・とくに、精神的・霊的伝統で「善」とされるもののために、自我(エゴ)を捨てる、もしくは、自らを捧げるという点において同じようなものなのではないか?
・そのような「善」のために自らを捧げる・与えるというのは、これは「愛」であるという思索はできないだろうか?
「主なる汝の神を愛し、汝の隣人を汝自身のごとくに愛せ」「自らを捧げる」というキリストの道と、大乗菩薩の道、さらにバクティ・ヨーガ(親愛の道)というのは通じ合うもの、「内的体験」においては同じようなものなのではないでしょうか?
もちろん信仰、教義、背景といったものはそれぞれ違います。
さらに仏教とキリスト教とヨガは同じ教えであるということを言いたいわけではないです。
そういうことには私は関心がありません。
しかし表面的な信仰告白やドグマはどうであれ、やっていることは、体験として生じるようなものは、同じようなところがあるのではないでしょうか?
シャーンティデーヴァの『入菩薩行論』や、ランリタンパやチェカワによるものが有名な「心の訓練(ロジョン)」などの中には、「イエスの言動」 (まぁ、聖書のイエスのたとえ話は下手だし、説明は分かりづらいと思うことがありますが) を連想するものがあると感じる人もいるのではないでしょうか?
バクティ・ヨーガにしても、菩薩の道やキリストの道と同じような信仰・思想があるように感じられます。
つまり「神」であれ「智慧・慈悲」であれ「霊性」であれそういったものにあって、自我(エゴ)を捨てる・滅する、もしくは、自らを捧げるというものです。
またこのような霊的な理想、精神的・霊的に「善」とされるもののために、エゴを捨てる、もしくは、自らを捧げる・与えるというのは、これは布施であり、「大乗」であり、また「愛」であると思索することはできないでしょうか?
「愛」において、エゴを放棄する、自らを捧げる・与えるというのが、キリストの道であり、菩薩の道であり、バクティであると言えるのかもしれません。
私なりの霊性の探究において、以上のことは今後の思索に価するものだと感じられます。
瞑想(密教、生命エネルギー) ―― 顕密統合
・瞑想においてもエゴを捨てるということが行われていないだろうか?
・「チャクラ」「クンダリニー」などが関係する生命エネルギーの実践においても。
・この点において瞑想(密教、生命エネルギーの実践)と、キリストの道(イエスの言動)、菩薩の実践、バクティヨガは結びつくと思索できないだろうか?
(霊性の実践における顕教と密教の統合)
瞑想には自我(エゴ、おのれ)から離れる(自我を捨てる)という要素があるのではないでしょうか?
瞑想と言ってもいろんなものがありますが、まぁ、とにかく、瞑想とか禅とかやっている人のなかには、こういったことを述べる人がけっこういます。
これは生命エネルギー(密教)の実践者においても同様です。
なので、このことについて今後も思索を深めていくならば、瞑想(密教、生命エネルギーの実践)と、キリストの道(イエスの言動)、菩薩の実践、バクティヨガは、霊性の実践において一つのものとして捉えることができるかもしれません。
(顕密統合)
現実社会との関係性において ―― ラムリムへ
・霊的な理想、精神的・霊的に「善」「愛(の実践)」というものについて、何が善であり愛であるのか絶対的な基準や真理はあるのだろうか?
宗教は絶対的な基準を提示することができるのだろうか?
・このことについて思索するならば、現実社会との関係性というものが重要になるのではないか?
霊的な理想、精神的・霊的に「善」「愛(の実践)」とされるもののうちに、自我(エゴ)を捨てる、もしくは、自らを捧げる、という場合に、では、なにが善で愛であるのかの絶対的な基準や真理は存在するのでしょうか?
宗教信仰を持つ人たちは、自らの信じる宗教の教義、聖典、偉大なる聖者・預言者の言葉を絶対的な基準・真理としてあげることでしょう。
しかし私の意見は、単刀直入に言うと、「もうそういう時代じゃない」ということです。
どういうことかというと、絶対的な基準を宗教教義においてしまうと、現代の社会では問題となるからです。
ズバリ言うとカルトの問題です。
つまり、、、
・そもそも宗教は非現実的なアホなことを説いている
・非現実的なアホなことを説く宗教を真に受けた信者が、その教えを実行しようとして現実社会でいろいろとやらかす
、、、ということです。
「霊的な実践」であったとしても、何が善であるのかという その判断においては、自分のおかれた状況、良心、遵法、現実社会の状況・良識、、、といったものを考慮すべきであろうということです。
つまり自らの「内なる霊性」と現実社会との関係性において、霊性の道、ラムリムは、はじめて成立すると模索をすべきなのではないかということです。
宗教においては、しばしば現実社会、世俗は「卑しいもの」などとされ、また「人の法より神の法」などといわれてきました。
しかし、人の世の社会の中にあっても、「世俗」「地なるもの」に埋もれることなく、霊性をあらわすということが、キリストの道、菩薩の道、バクティ・ヨーガであり、霊性の道・実践であるという考察は可能なのではないでしょうか?
そうであれば、霊性(宗教ではなくて)というものと、科学や現代文明は親和的、協力的な関係になりえると思われます。
宗教、スピを含む今までの精神世界においては、現実社会(世俗)との関係性において、このようなことが真面目に考察されてこなかったのではないでしょうか?
関連note: >> 水瓶座(アクエリアス)の時代?
神はどこにいるのか? ―― もし存在するのなら
“イエスは言われた。
「……あなた方が、この山でも、エルサレムでもないところで、父なる神を礼拝する時が来る。……
まことの礼拝をする者たちが、霊とまこととをもって父を礼拝する時が来る。……
神は霊であるから、礼拝する者も、霊とまこととをもって礼拝すべきである」”
この瞑想する人noteでは、超越的な信仰を肯定しているわけではありませんが、あえて否定もしてません。
仮に、もし、神が存在するのなら、いったいどこにいるのでしょうか?
科学的な装置を用いて神の居場所を特定できるのでしょうか?
いまのところは可能になっていません。
瞑想とかヨーガ、精神世界をやっている人の中には面白いことを言う人がいます。
「神は我々の(意識の)内に存在する」と言うのです。
精神世界系の人でこういった意見に興味を持つのは、けっこう多くいるのではないでしょうか?
自らの意識の内に ――― 霊性において「愛」において、エゴを放棄するという、もしくは、自らを捧げるという、その意識の内に神を見いだそうとするのは、なかなか面白い探究なのかもしれません。
「内なる霊性、内なるキリスト、内なる神」と「一なる神(ワンネス)」という探究です。
荒野に 内なる霊性の道を備え
砂漠に 大なるもののために 大路をまっすぐにせよ。
(聖書・旧約、イザヤ書40章3節のパロディ)
関連note:道次第の考察 ―― 顕教と密教、生命エネルギー、生起次第、究竟次第