『別れを告げない』ハン・ガン/斎藤真理子訳
作家である主人公の女性は、仕事仲間であり親友でもある写真家の女性から、突然「すぐに来て」との連絡を受けます。向かったソウルの病院には、手指に大怪我を負った痛々しい彼女がいて、苛烈な治療を続けていました。そして主人公に、済州島の自宅に急いで行ってくれ、と請うのです。猛烈な豪雪の中、空路とバスでの行程は大変な難儀となりました。そしてようやくたどり着いた彼女の家で、主人公は不思議な経験から、この島でかつて起こった凄惨な事件のことを知ることになるのです。
詩的な雰囲気でありながら、しかし情景がくっきりと目に浮かぶような描写性もある、独特の文体です。物語の背景にあるのは、済州島四・三事件(1948年)。当時の国家権力による住民大虐殺で、この事件のことは恥ずかしながら全く知りませんでした。激動の時代の渦中とは言え、数万人もの自国民を問答無用で虐殺するとは、むごいことです。著者の強い憤りが文中に封じ込まれています。
しかし著者は、感情をストレートには露わにせず、豪雪に閉ざされ孤立した情景の中で、幻想的に叙述して行きます。白く冷たく静かな現実世界で語られるからこそ、炎と血にまみれた動乱の記憶が鮮烈に浮かび上がっています。
現実世界と書きましたが、主人公と親友に本当は何が起こっているのか、ついに最後まで分かりません。謎めいたまま終わるのが、心穏やかでない余韻を残します。
訳文は、格調高くかつ読み易いものでした。要所要所に適切な注釈が付され、更に訳者あとがきによって外国人には分かりづらい歴史的背景が説明され、非常に親切です。