無力な大人たちが不幸だった私にかけた言葉は、魔法になった
「君は必ず幸せになれるよ」
この言葉は、大人たちが私にかけてくれた不思議な魔法だった。
保育園の園長先生。弟の葬式でお経をあげてくれたお坊さん。小学校の先生。高校の担任。大学のゼミの教授。上司。大好きなおばあちゃん。
当時は(何を根拠に言ってるんだろう)と不思議だったけど、今ならわかる。
ただ、そう言うしかなかった。親に暴力をふるわれ、心の歪んだ大人に育とうとしながら懸命に生きる私に、救いの手は差し伸べられない。けれど、だから、せめて、幸せになってほしい、と。
無力な大人たちが、他人の子にかけられる言葉は、それ以外になかったのだと思う。
とても無力で、無責任で、自分勝手な言葉。
でも今は、あの言葉に心から感謝してる。
昔は「幸せになれるよ」と言われても、当然信じられなかったし、なんならそんな勝手を言う大人たちを恨んでさえいた。そんな根拠のないことを言うくらいなら助けてくれ、私の代わりに妹弟たちを守ってくれ、と。出来ないのなら黙ってろ、と。自分が気持ちよくなるために、勝手に私の幸せを願うなよ、と思っていた。
今は、ちゃんとわかってる。
大人たちには守るべき自分の家庭があって、不幸そうにみえる他人の子供を救うのは荷が重すぎる。一度その場で手を差し伸べたところで、幸せになれるわけがない。一生を面倒みるなんて簡単じゃない。
何より、幼い私自身が両親のぬくもりを求めていた。その愛を与えられる大人は、両親以外にいない。他人が代わるなんてできない。
だからあの時の大人たちは「幸せになってくれ」と願うことくらいしかできなかったし、パッと見幸せになれそうもない環境で生きる私に「幸せになってね」なんて可哀想すぎた。だから「幸せになれるよ」と、幼い私の生きる力を信じて大人ぶるしかなかった。
きっと本当に救いたかったのは、幼い私を救えないと自覚した無力な自分たちだったと思う。
みすぼらしいプリンセスが国で一番のイケメンと結ばれるとか、正義が勝つとか、努力は必ず報われるとか。そういう作り話を子供たちに聞かせるのと同じ気持ちだっただろう。
その言葉は、自慰的な偽善だけど、
あの大人たちは偽善者ではなかった。
私に「必ず幸せになれる」と言ってくれた大人たちは、みんな、本当に優しかった。弱かったかもしれない。無力だったかもしれない。でも、優しかった。
今、私はとても幸せ。
もちろん悩みや不運には見舞われるし、これからきっと大好きな人を失うような経験だってするだろう。
でも、幸せ。
大人たちが「必ず幸せになれる」と言ってくれた記憶があったから、幼い私は本当に生きることを諦めそうになったときに諦めずに済んだ。
どんなに無力でも、無責任でも、偽善だったとしても、誰かが信じてくれた幸せな未来があるのなら、もしかしたらその未来は本当に実在していて、生きていけば何かが起こるのかもしれないとほんの少しでも思えたことは、たしかに私の力になった。
もちろん、もし、あの時救われていたら、と空想することはあった。
でも、救われていたとして幸せになれたかどうかは、分からない。
実際は、「必ず幸せになれる未来」なんて存在しなかったし、それは血を吐くような自分自身の努力で作りあげるしかなかったけど、あの時の大人たちが私を信じてくれなかったら、私は努力することすらできずに絶望して、今でも希死念慮に縛られていたはずだ。
あれは、魔法の言葉だった。
魔法も、ファンタジーも、アニメも、漫画も。実在しない夢物語は、誰かの心に届けば本物の力や愛や希望になる。
あのとき、私を信じてくれた大人たちに会いたい。
幸せになった私を見てほしい。
あのとき、信じてくれてありがとう。
一瞬でも救いたいと思ってくれてありがとう。
私のために願ってくれてありがとう。
ハリボテだったとしても、尊い優しさをくれてありがとう。
私は、あなたが言ってくれたとおり、幸せになったよ。
だから、自分を弱いとか無力だとか思わずに、あなたも幸せに長生きして。
私を救えなかったことを悔やまないで。
これからも私の幸せを願い、信じていて。
私の人生は、あなたへの恩返し。
ありがとう、みんな。