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心地よさの源泉は「単純作業」にあり?AI時代に際立つ瞑想空間としてのキャンプ

広大な北海道キャンパス内にみずから野外教育のためのフィールドを切り開き、プライベートでも渓流釣りや山菜採り、キノコ狩り、バックカントリースキーなど一年を通して野山を歩く。國學院大學北海道短期大学部・田中一徳教授が「北海道の冒険王」と称されるゆえんです。

そんな田中教授に今回語ってもらうテーマは「野外活動における瞑想」について。

自然の中でさまざまなアクティビティに取り組んでいると、時間を忘れて没頭してしまうことがあります。と同時に、精神的なリフレッシュを感じるというのは、多くの人が共通して実感するところではないでしょうか。

「これは自然ならではの環境が、ある種の瞑想状態を生んでいるのではないか。ストレス過多の社会から抜け出し、そういったものを本能的に選び取る人が増えていることが、キャンプブームの一因になっているかもしれない」と田中教授は言います。

野外活動はなぜ瞑想状態を生むのか。自然環境が私たちにもたらすリフレッシュ効果はどこまで解明されているのでしょうか。

単純作業の繰り返しが瞑想状態に導く

ーー野外活動が瞑想状態を生むと言えるのはなぜですか?

瞑想と聞いて多くの人が思い浮かべるのは、静的瞑想と呼ばれるものでしょう。目を閉じて静かにし、自分の内側に目を向ける。そうすることで、バラバラになってしまっていた心と体を一つにし、自分を心地よい状態へと持っていく。

これに対して、動的瞑想=アクティブ・メディテーションと呼ばれる瞑想法があります。目的としては静的瞑想と変わらないのですが、そこに至るまでのアプローチが違う。静かにするのとは逆に、体を動かしながら行うのです。

野外でなにかの作業を行っていたら、いつの間にか時間が経っていた。これはアクティブメディテーションに近い状態と言えるのではないかと思うのです。

ーーじっと座って行うのではなく、動きながら行う瞑想。

私がアクティブメディテーションに興味を持ったのは、学生のころにネイティブアメリカンの本を読んだのが最初でした。その本によれば、ネイティブアメリカンはビーズ細工を行うことを通じて瞑想状態に入っているといいます。

その鍵を握るのは、「繰り返しの単純作業」です。ビーズ細工というのは、まさにちまちまとした単純作業。そういう単純な作業を繰り返し行うことにより、動きながらでも瞑想状態に入ることができると言うのです。


たとえば、山岳信仰における山歩きなども動的瞑想の一つです。修行者は一定のリズムで歩くことそれ自体に意識を向けることで、瞑想状態に入り、心を整える訓練をしているのでしょう。

あるいは武道の型もそう。私はかつて剣道をやっていましたが、剣道における素振りや型にも、ひと通りのルーティンを行うことで気持ちを落ち着かせたり、心の準備をしたりといった側面があります。

ランニングにおける「ランニングハイ」もそれに近いのかもしれないです。ある研究によれば、走る時の単調なリズム、足踏みが、脳の意識を低下させるといいます。その結果、じっと座っているよりも悟りの状態に近くなると言われています。

ーーそれが野外活動とどう関係しますか?

キャンプ、野外活動には単純作業を繰り返し行う機会がたくさんあります。木を削って箸を作るというのもそう。薪を割って火にくべるというのもそうです。

私は渓流釣りをするのですが、渓流釣りというのは、その過程で沢をどんどん遡上していきます。目の前の課題に淡々と取り組むかのように、次の滝、次の滝と登っていく。これも、大きな意味で言えば単純作業です。
そうやって渓流釣りに勤しんでいると、魚が釣れたり、すごい滝を登れたりすることによるものとは違う喜びを覚えることがあります。ただ進むことそれ自体に没頭していて、そこに心地よさを覚えている自分に気づくのです。

渓流だから、当然のことながら周りには絶えず滝や流れの大きな音がしています。あるいはたくさんの虫がまとわりついてきたりもする。けれども、釣りに集中していると、だんだんとそういったものは気にならなくなっていく。

目の前の必要な作業にだけフォーカスがいく。それがとても心地いいんです。

DX、AIが動的瞑想の機会を奪う?

ーー単純作業の機会自体は都市生活にもたくさんあるのでは?

それはその通りです。皿洗いのような家事も、捉え方によっては瞑想になると言う人がいます。都市環境においても、やり方次第で自分を心地よい状態に持っていくことができるのは事実でしょう。

しかし、いまは都市環境から徐々にそうした機会が奪われているとも言えるのではないでしょうか。「単純作業、ルーティンワークはAIに任せて、人間はもっと創造的な仕事に専念しよう」というメッセージをよく耳にしますよね?

ーーたしかにそうですね。

自動化、効率化が進み、都市生活はどんどん便利になっている。煩わしい、面倒臭い繰り返しの作業から解放されることには、もちろんいい面もあります。

ですが、それも行きすぎると、人間が人間らしく生きる条件、大切なものを失いかねない。単純作業の機会が失われることは、私たちの日常生活からアクティブメディテーションの機会が奪われているとも言えるわけです。

そこでキャンプです。繰り返しになりますが、キャンプには単純作業の機会がたくさんあります。薪を割る、それを火にくべるというのもそう。ひたすらカヌーを漕いで静謐な川を進む、あるいは夜空の星を見ながら歩くというのもそうです。

さすがに、わざわざキャンプに来てまで、薪割りや火をくべることを自動化しようとはならないでしょうから。そういう意味ではキャンプが、都市生活者が人間らしくいられるための、最後の砦になっても不思議はありません。

本来野生にいるはずの動物を狭いスペースで飼おうとすれば、ストレスが溜まりますよね。同じことは人間にも言えます。社会のルール、都市生活のルールに従ってさえいればいい環境は、楽かもしれませんが、その一方でストレスの元になることもあります。人間もまた動物であり、本来は自然の一部だからです。

本来自然であるはずの人間と人工的な都市環境、その摩擦がストレスとして現れているのが現代社会と言えるでしょう。だからこそ、その外側に出ることを本能的に求める人がいま、増えているのではないかと思うのです。

ーーストレス過多の社会。都市化が進めば進むほどそのストレスから解放される機会が日常から消えていく。だから日常を飛び出し、キャンプにそれを求める。

野外でのアクティビティには、それ相応の技術や技能、知識がいりますが、都市生活で自動化が進めば進むほど、そういったものが失われていく側面もあります。たとえば山菜採りやキノコ狩りなどもそうです。山菜やキノコ自体は都市のスーパーでも容易に手に入るけれど、自然の中で天然モノを自ら見つける人はどんどん減っていますよね。

昔はこうした体験が暮らしの一部として、ごく当たり前のように溶け込んでいました。しかし今では、天然素材を珍重するグルメの嗜みや、山のポイントを熟知した人たちの贅沢な特権になっているように感じます。今後は地方から都市への人口集中、伝統の継承の難しさ、温暖化などの影響もあり、ますますそういった動きが加速していくかもしれない。もちろんそうでない社会を作りたいものですが、一方でその流れは確実にあります。

自然には五感への刺激が満ちている

ーー創造的な仕事こそが人間らしい仕事であると言われる中、単純作業こそが人間を人間たらしめていた可能性があるというお話は目から鱗でした。都市生活からその機会がどんどん失われる一方で、自然環境にはまだ残されている、と。

野外生活が都市生活と違う点は、もう一つあります。それは、五感への多様な刺激に満ちていることです。匂い。音。光。あるいは足の裏の感触にしたってそうです。ありとあらゆるかたちで、自然環境は私たちの五感を刺激してきます。

たとえば、人工的に作られたエッセンシャルオイルのような商品がありますね。ヒノキや花の香りが私たちにリラックス効果をもたらすというのは、一般的によく知られるところです。けれども、自然の中であればそういったものが当たり前にあるわけです。

あるいは鳥のさえずり。木漏れ日。そういったものが相乗効果を生み、私たちを心地よい状態へと導いてくれる。そういった環境の方がなにかに没頭しやすい、自然の中ではそうした状態が生まれやすいというのが私の実感です。

残念ながら、アクティブメディテーションと野外活動の関係を定量的に示した研究はまだありません。ですが、森林セラピーに関する研究によれば、都市部よりも森の中の方が、また森の中でただ座っている時よりも歩いている時の方が、それぞれストレス反応が下がることがわかっています。こうした研究結果が、自然環境におけるアクティブメディテーションの有効性を間接的に示唆している、くらいのことは言えるかもしれません。

都市環境というのは、人が住みやすいようにコントロールされています。対して自然環境では、我々が予知しない突発的な出来事が度々起こる。五感への刺激が多いというのは、すなわち都市と比べて不安定な状態ということでもあるでしょう。

個人的には、そうした複雑で不安定な環境の方が面白いと感じます。ワクワクやドキドキ、スリルをもたらしてくれるから。むしろそういう一定の緊張感があった方が、心地よい状態に入りやすいような気もするのです。

私の周囲が特殊なのかもしれないですが、私の友人には、アクティブな休み方をする人が結構多い。疲れているなら単純にゆっくりする、長く寝るというのでも良さそうなのに。そうではなく、夏ならトレラン、沢登り、冬ならバックカントリースキーというように、エクストリームな活動に身を投じようとするのです。

しかも、そういう人に限って、普段はネクタイを締めたお堅い証券マンだったりするから面白い。これは私の肌感覚であって学術的な裏付けがあるわけではありませんが、高負荷のストレスを抱えている人ほどその対極を求めて、アクティブな休み方を好むようにも見える。

まるで、飼いならされた都会の日常から自然の中へと踏み出し、自分の力、自分の限界を試しているかのよう。でも、それこそが人間に本能的に備わった欲求なのかもしれないと、私は思うのです。

執筆:鈴木陸夫
写真:渡辺 誠舟
編集:日向コイケ(Huuuu)