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真木悠介「時間の比較社会学」

名著「気流の鳴る音」に続いて、1980年に書かれた本。今年4月に亡くなった東大教授・見田宗介氏がペンネームで書いている。

用語に硬いところがあり、読むのに最初、骨が折れるけれど、それを乗り越えるととても興味深い。原始社会や古代社会、近代社会の時間意識について述べた本は他にもあるけれど、この本では、それらを人類史の総体を見据えた社会システムの変化(=自然からの離脱と、共同体の崩壊)と関連づけて構造的にとらえ、「時間」と「貨幣」の相似性にも触れながら、近代を越える未来の充実した生のあり方まで展望しているところにある。
人類学から聖書や和歌、マルクスやプルーストまでカバーする幅広さと、追求するテーマの愚直なまでの一貫性に感心する。
この長い探究を貫くのは、10代の頃に著者をとらえたという「死の恐怖と虚無感」から解放されたいという問題意識だ。僕自身も子供の頃に「自分が死ぬとどうなるのか、その後も世界は続くのか、人類がいずれ滅びるならなぜ勉強とかするのか」などといった問いに悩まされた時期があった。それを学問の対象にして、そこから人間社会のダイナミズムを総体としてとらえるという離れ業は、著者にしかできない仕事だったと思う。そして結語で著者の熱い思いに触れて感動する。

社会システムのあり方と時間意識の違い

「死の恐怖や生の虚無とは知の地平の範疇ではなく、ひとつの生きられる戦慄」「知でなく生による解放とは・・・われわれが現実にとりむすぶ関係の質を解き放ってゆくことだ。」「過ぎ去った共同態とはべつな仕方で、人生が完結して充足しうる時間の構造をとりもどしえたときにはじめて、我々の時代のダブー、近代の自我の根底を吹きぬけるあの不吉な影から、われわれは最終的に自由となるだろう」

著者は、生きる意味を未来に先送りし現在を疎外する近代の生き方から、「現在充足的(コンサマトリー)」な生き方へのシフトを提唱する。本書で紹介される人類社会の歩みをみれば、将来そのような生き方が一般的になるとすれば、自然から離脱し共同体を失った近代から、ふたたび新たな形の自然との交感と共同性の獲得がなされるはずで、それは地域分散の循環型社会になると思われる。著者が生きておられたら、そのことを確認しておきたかった。

この本に興味を持った方は、ぜひ著者の他の本にも手を伸ばしてほしい。「気流の鳴る音」や「宮沢賢治 存在の祭りの中へ」「現代社会の理論」あたりはもっと読みやすく、しかも本質的な問題意識は通底していることがわかる。

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