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【読書感想:超深掘り】「おいしいごはんが食べられますように」を味わう その3

こんにちは。しゅんたろうです。

このエントリは連載で、以下の本の感想を書いています。

2022年芥川賞受賞作品
「おいしいごはんが食べられますように」
(著:高瀬 隼子)

現代社会に渦巻く心の闇を、すごく上手に切り取った作品です。

読み終わったあと、心にモヤモヤが残るんですが、
それを丁寧に解いて言語化していくと、様々な気付きが得られました。

私がこの本を味わった感想を書き残します。(その3)

○プロローグ
 
①「作品内容のおさらい」と「私の気付き(目次)の列挙」

○登場人物の問題
 
②押尾(バリキャリ)
 ③芦川(献身的) ←【当エントリ】
 ④二谷(うまくやる)


○現代社会の歪み
 ⑤正しいかではなく、弱いほうが勝つ世の中
 ⑥なんのために食べるのか

※※※ 以下、ネタバレあり。 ※※※
(NGな人は、本を読んでから見てね。)

献身的な芦川さんの問題

今回は「芦川さんの問題」について考察します。

芦川さんは、献身的でメンタル弱め。
体調不良がちで、仕事を早く切り上げて帰宅してしまいます。

一方で、身体に良い食事、手間暇かけた食事を作ることが好きです。
「体調不良で会社に迷惑をかけたお詫びに」と職場の人たちに手作りお菓子を振る舞います。また、付き合っている二谷にも、仕事から帰ってきた夕飯として、手作り料理をいつも作ります。

自分のか弱さを意識的に演出する"あざとさ"は一切なく、純粋に職場の人たちや二谷のためを思って、料理を作り、振る舞います。

超良い人ですよね。

だから「芦川さんは善良な人間で、ただの被害者だ。押尾と二谷の性根がねじ曲がっているから、本書のような事件は起きたのだ。」という方もいらっしゃるかもしれません。

でも、私は「本当に芦川さんには、何も問題がなかったのか。」について考えてみたくなりました。

○自分の中では、よかれと思った何気ない発言

二谷は残業続きの繁忙期。
仕事帰りに、芦川と電話した時のシーン。

「そういうときこそ、身体に良いものを、簡単でいいから作って食べて、ゆっくり休んでね。」といった発言(文言はうろ覚え)があったと思います。

カップ麺(のような身体に悪い食べ物)が好きな二谷にとって、それは「自分に対する攻撃」となる言葉でした。

自分が好きなものを食べて、疲れきった心を休めて寝たいのに、
睡眠時間を削ってまで料理して、健康に良い食事を食べることが
はたして正しいのかと。

○「正論を伝える」のは正義か

良く言えば「純粋」。
悪く言えば「鈍感」。

「正論」だって、相手の状況次第では、正しくない場合もあります。

相手の状況を慮り、言葉を投げかけること。

自分が「相手のために」とどれだけ思っていても、
それを受け取った相手がどう感じるかということを
常に意識して、言葉を選ぶ必要があることを感じさせます。

○気配りの限界。相手のリアクションで軌道修正。

とはいえ、もちろん限界もあります。
すべての面において気配りができる人間など、存在しません。

今回の場合だと、
芦川の「食」に対する価値観を受け入れられないのに、
そのことを芦川に全く伝えない二谷も悪いです。

誰だって、自分の言動に対して、
"相手のリアクション"があって初めて
自分の言動が「鈍感」であったことに気付けるからです。

そういう意味では、いままで
純粋な善意で行動してきた芦川さんに対して、
「手作りお菓子を渡されるのは、苦手な人もいるからね」と
アドバイスしてくれた人はいたのでしょうか。

もしかしたら、「本人を傷つけまい」と思って
周囲が何も言わず受け入れてきたのかもしれません。

他にも、手作りお菓子を渡された手前、
言い出しづらかったのかもしれませんね。

○世間一般的に、良いこと・悪いこと

世間一般的に「手作りの食事=良いもの」です。
その善意を断ることは、「悪いこと」です。

しかし、この「世間一般的に」というのがポイントで、
「すべての人に当てはまる訳ではない」という点に留意が必要ですね。

この多様性の時代には、特に敏感になる必要があります。

「私はこう思う」はいいけど、
「あなたもこうした方がいいよ」は
ときに押し付けがましく感じられ、
「余計なお世話だ」と思われるかもしれないのです。

○双方の歩み寄りが必要

「あなたもこうした方がいいよ」を
「価値観の押し付け」と受け取るか
「善意あるアドバイス」と受け取るか。

「私はこういうことが苦手です」と、自分の弱さを見せることを
「わがまま、弱音、自己都合主義」と考えるか
「自分の特性を把握できてる。適性に合った仕事を振ろう。」と考えるか。

全部グラデーション。
ケース・バイ・ケースで、線引きが難しいところです。

結局は「信頼関係」なのかなと思ったりもします。
そして、双方の歩み寄りと相互理解によって、
都度、認識のズレを埋めていくしかないのです。

○「心の余裕」が会話を生み、「認識のズレ」を埋める

そして、そのときに必要なのは「心の余裕」です。

現代社会では「心の余裕」がなさすぎて、
少しの会話で埋まるはずの認識のズレがこじれて
あらゆる組織で不協和音が響き渡っている。

そのような気がしてなりません。

結局、芦川さんの問題は?

最初の問いに話題を戻します。
結局、芦川さんの問題は、なんだったのでしょう?

私は「芦川さん自身が、自分の世界の中に閉じていて、本当の意味で相手のことを理解しようとしていなかったこと」だと考えています。

「双方の歩み寄りが必要」という点で、芦川さん側も歩み寄れてなかったんですよね。

よかれと思って、自分の考える正しさを実行し続けてきた。

そして、机の上に潰れたケーキが置かれているようなことがあっても、見て見ぬふりをし続けた。

その点では、鈍感ではなく敏感に察知して、自分の言動を軌道修正できていれば良かったのかもしれません。

○余談:無自覚のあざとさ

もう1つ、押尾と芦川が雨の中、猫を助けたエピソードについても、少しだけ触れさせてください。

「猫が溺れそう。助けてあげたい。でも、どうしよう。」と言う芦川。
傘を必死に伸ばして、びしょ濡れになりながら、猫を助けた押尾。
「私にはできないよ。押尾さんはすごいね。」と言う芦川。
びしょ濡れな押尾と、傘を差して濡れてない芦川。

芦川本人は無自覚ですが、芦川にはそういう"あざとさ"が存在しているのは事実です。押尾が芦川が嫌いな理由を「弱くて周囲から守られながら生きているから」と言うのには納得できる気がします。

「弱くて、助けてもらって、それに感謝の気持ちを示す」という"お互い様"の世界がある一方で

「弱くて力が足りないのであれば、自分も周囲も助けることが出来ない」という"弱肉強食"の世界があるのも事実です。

"キレイゴト"だけでは生きていけない現代社会の心模様を、実に鮮やかに表したエピソードだと感じました✨

今日のまとめ

○「正論」を伝えるのが「正義」とは限らない。
 →「世間一般的に良いもの」が「その人にとっての良いもの」とは限らない。相手の状況を知ったり、相手のリアクションから、自分の言動を軌道修正する敏感さが必要。

○自分の言動をどう受け取るかは、相手次第。
 →人間関係・コミュニケーションを円滑にするためには、双方の歩み寄りと相互理解が必要不可欠。「心の余裕」が会話を生み、「認識のズレ」を埋める。そうして信頼関係を生めば、大抵の言動は良い方に受け取られる。

○この社会は"弱肉強食"と"お互い様"の両方の世界が存在する。
 →押尾と芦川は両極端の人間。そのため、相容れない存在だった。どちらか一方で生きることは出来ない。自分の世界に閉じることなく、自分が信じる世界とは異なる世界があることを認めよう。

今回も沢山の学びが得られた✨

この本、ほんと~~に味わい深い。

そして、こうやって考えながら言語化する作業が、自分は本当に好きなんだなぁ~と実感する💕

ではまた!

しゅんたろう

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