読書メモ#3

この記事は「積読チャンネル非公式 Advent Calendar 2024」の7日目の記事です。昨日はとくらじゅんさんの「小学生の子を持つ親に向けた作文の書き方」です。明日はくまのすけさんの「書店アルバイトの思い出」です。

https://adventar.org/calendars/10694
詳細後述

読了報告を膨らませたら記事になると思い、安易な気持ちでアドベントカレンダーに参加しました。結論、紹介文のような感想文のような要約メモのような、よく分からない感じの文章になりました。個人の主観的な読書体験を記したものであり、解釈について誤りを含む可能性もあります。

ゆる言語学ラジオ積読チャンネルに次いで、有隣堂しか知らない世界にハマっているので、有隣堂書店の在庫検索へのリンクも貼ります。リンク先ページ下部の赤いボタンからHonyaClub経由での全国発送も可能です。


今井むつみ 著 『学力喪失 認知科学による回復への道筋』

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『言語の本質』と数の概念の習得

前回の読書メモに記した同著者『言語の本質』にて扱われていた記号接地問題が、数の概念の習得にも影響しているという仮説のもとで、つまづきを乗り越える教授法や学習法を考察している。

記号接地問題は、記号と実物がどの程度接地していなければならないのかという問いである。

例えば、言葉の習得においては、周囲の大人がどんな場面でどんな言葉を用いていたかという実体験が基になる。最初のうちは実物・実体験と結びついたものでなければ、言葉を身につけることができない。

しかし、ある程度の記号接地が済むと、身に着けた言葉の意味を基にして別の言葉の意味を理解することができるようになり、語彙が急増する時期が生じる。

【記号接地:体験から記号へ】
①アブダクション推論:体験を拡張して仮説を作る推論
 ★ゆず湯に入った子どもが、その体験を基に、自分なりに仮説を立てる
  ●記号接地:ゆずのお風呂に入って「ゆずゆ」という言葉を耳にする
  ●スキーマ:「ゆずゆ」を「ゆず+頭文字」として認識  
  ●仮説形成:果物の名前+頭文字 = 果物のお風呂

②演繹法:立てた仮説に基づき、みかんのお風呂を「みかんみ」と表現する
 ★「次は『みかんみ』に入りたい」と伝える子ども

③帰納法:両親のリアクションを見て、間違っていることに気づく
  ●システム2(スローな認知)
   周囲の様子から仮説を訂正し、スキーマが修正される
   →2個目の「ゆ」は、頭文字の再来ではなく「湯」を表す
  ●システム1(ファストな認知)
   身体の一部であるかのように自在に言葉を繰り出せるようになる
   →「〇〇湯」の理解、「みかん湯」などの言葉を生み出す等

【ブートストラップ:記号から記号へ】
身に着いた言葉が別の言葉や表現を理解するのに役立ち、語彙が急増する時期が生じる(語彙爆発)

https://youtu.be/hNULhZPWmD8?si=th0YUGSjvE9-1Hwv&t=117
の内容と、この本の内容を踏まえてのまとめ

数字や数式もある種の記号である。数の概念の獲得にも記号接地問題が関わっている。例えば、計算問題はできても、文章問題が解けない子どもがいる。数式(記号)と実際の場面(状況)が結びついていないことの現れである。

逆に言えば、体験から記号へ向かう記号接地によって数字の意味を理解できていれば、言語習得と同じように記号から記号へと抽象度の高い操作も理解できるようになるはずだ。

そうした能力を適切に引き出し、数の概念におけるつまづきを解消するためには、どんな方法があるだろうか。

正答率よりも誤答を生む思考、思考を生む認知の分析を

テストの多くは得点や分野ごとの正答率が分析の対象となる。しかし、まぐれで正解することもあり、思考の過程を見ることができない。

そこで、著者は思考の過程が見える「たつじんテスト」を開発し、その誤答に見える思考を第4章~第6章にまとめている。

思考を生む認知の型をスキーマと呼ぶ。
例えば、「数はモノを数えるために存在している」という誤ったスキーマがあると、分数や単位変換が理解できなくなってしまう。

誤答を分析することで、どんなスキーマが子どもの中にあるのかを探り、どの概念がどこまで"理解"できているのかを見ることができる。

自分の中の原体験を振り返る機会になるかも

分数の理解に関するところを読んで、幼少期に通っていた折り紙教室のことを思い出した。4等分は2回半分に折るという形で早く理解していたのだけど、3等分の習得には時間がかかったことを思い出した。

縦方向にまっすぐ3等分する時、片側を適当に折ってみる。その折筋まで逆側を折って、さらにもう1回ふちに合わせて折って、それでぴったり合えば3等分、という風に手探りでやっていた覚えがある。

この3等分という感覚が分数でつまづく時間を短縮することにつながっていたのかもしれない。折り筋は自分の中で数直線に近い意味を持っていたのかもしれない。

後知恵バイアスかもしれないし、無意識に過ぎ去ってしまったことだから今となっては分からない。しかし、数の概念が先生の言葉による説明とは違ったルートで、感覚的に身に着くということがあったのかもしれない。

明確にこの体験が効いたという記号接地の成功例・失敗例が出てくるかは分からないけれど、いろいろな人にそういった原体験の有無を聞いてみたらおもしろそうだ。

横断的に著作を見てみたくなる

記号接地問題を言語習得に見出したのが『言語の本質』であり、数の概念において当てはめたのが本書である。

同様に、先述のスキーマをコミュニケーションの失敗の原因として論じた著書として『「何回説明しても伝わらない」はなぜ起こるのか?』がある。

ゆる言語学ラジオのとある回では、「終電前に帰ってくれば朝帰りでないから許される」という朝帰り回避のスキーマと「家族だんらんが当たり前な家庭で育ったので、いっしょに夕飯を食べられなければ嫌」という家族だんらんスキーマが対立したエピソードが著者との雑談の中で出ていた。

認知にまつわる様々な概念を、いろいろな領域に当てはめて活用していく様子が、すそ野の広さを感じられて、全く違う領域の話が同じ概念を使って説明されるおもしろさがある。

また、本書では記号接地を助ける教材を開発し効果測定をしていたり、『言語の本質』では霊長類に推論能力があるか実験していたりと、それぞれの分野において最も適した形でこれらの概念を応用し、実験デザインも最適化されている。使いまわし感が一切ない。

水野さんがファンになるのも納得の著者の「探求心」を味わうことができる。この本に記されている教育の営みもまた、記号接地によって子どもの探求心を引き出すことが肝になる。向上心を持って探求をする、そうしたいと思えるものを自分も持ちたい。読書がその一助になると良い。

岡田憲治 著『政治学者、PTA会長になる』

有隣堂書店在庫検索(ページ内のHonyaClubリンクから全国発送可能)

PTAの現状が生み出された経緯と、その想いに対するケア

政治学者がPTA会長に選出されるまでの経緯と彼から見たPTA組織の非合理が第2章までに濃縮されている。問題はその非合理さをどう改革していくか。言われてできるならば既に廃止されているだろう。みなうすうす気づいているのだろう。その非合理さがなぜ残っているのか。

その点を考慮せず、事情を理解しないまま正論を振りかざしてしまった後悔が改革前から既ににじみ出ていて、第3章以降への不穏さを強調している。思わず読む手がひるんでしまうのだが、ふと思う。これもスキーマの相違の問題なのかもしれない。

"想い"という言葉の厄介さ

この本の中で丹念に描かれているのは、想いがあって作られた制度が人を苦しめる過程だ。一見すると不合理な制度も、当初は正当な意図があってつくられたものであることが強調されている。

実態から乖離した制度によって負担を強要されている人と、制度の本来の趣旨が崩されることを恐れている人の間に、スキーマの相違がある。

制度を正そうとするときに、先人たちの想いや当初の意図を否定してしまわないようにケアしなければならない。過去の尽力へのねぎらいと承認を与えなければならない。そうしたケアができなかった後悔も繰り返し述懐されている。

大学時代に「想い」という言葉が嫌いだと言っていた人がいたのを、今でもたまに思い出す。それは、目的・目標とは異なる体温のある「想い」を持てと強要されることへの嫌悪であった。

その嫌悪はおそらく、「想いの聖域化」に由来するのではないか。
「想い」が聖域化すると、批判ができなくなり、言葉が通用しない、議論ができない組織になっていく。だから、ケアを伴う言葉で双方の心を開いて、言葉が届く状態を作り出していく必要がある。

外から与えられる必要性、自発的に湧き出てくる欲求

PTAは本来出入り自由で任意参加の組織である。それを政治学の用語で「アソシエーション」と呼ぶ。生活の延長にある「自治」のための組織である。

毎年、人の出入りのある組織で、構成員一人ひとりが異なる生活を送る中で、どのような制度や仕組みが必要だろうか。

この本で描かれるPTAはまさに「内憂外患」の様相を呈している。

外部の問題としては地域や他のPTAとの関わりによって業務が増えていることが挙げられている。

地域ぐるみの行事運営には多様な価値観が混じり、本当に子供のためになっているかの検証を難しくする。大人の生きがいと子供の幸福が両立させていくことは、実は難しい。エゴにまみれているように見えても、相手にとっては居場所になっている。

この点について、どこをどう変革したかは書かれているが、お月見会の発展的解消以外は「どうやって」の部分、具体的なやり取りは省いてある印象で、生々しいエピソードが数えきれないほどありそうだ。

内部の問題としては組織マネジメントがある。つまり、人々が安心して自律的に行動できるような組織を作っていかなければならない。裁量や自由が善良な形で発揮できるようなシステムを構築しなければならない。心理的安全を担保し、不安を退け、判断力を発揮できる状態を保証するために、ルールが必要だ。
さらに、毎年変わる実態に応じて、メンテナンスと改良を続けていかなければならない。それは誰にでもできることなのだろうか。

著者は組織の中に必要な人員として、全体最適を担う司令塔的オペレーターと選択肢を生み出し、内外に示すリーダーの違いに言及している。オペレーター気質の人がPTA会長(=本来リーダーが求められる役職)になった隣の小学校区の話を引き合いに、「舵取り」と「調整」が混同されていることを指摘する。

内憂外患を見ていると思うのは、組織の息苦しさの原因は「理由や必要性が他者から与えられること」にあるということだ。

地域で長年引き継いできたことが行事運営の仕事を生み出す。専業主婦とフルタイム労働者の対立が、自分たちで物事を決定しているという感覚を削ぎ、互いの視線が不安を引き起こす。

内外にいる異なるスキーマを持つ他者とうまく折り合いをつけて、双方にとって楽になるような方法を一緒に考えていくことが必要になる。

お月見会の事例のように、自分たちにとってちょうどいい形になるように、相手の意向を逆に活用していく(というといやらしいが)ことも考えられる。

そういうわけで、具体的な解決策にはあまり言及されていないが、著者の苦悩にはグサッとくるものがある一冊だった。

堀越 勝 著『ケアする人の対話スキルABCD』

ケアという言葉への興味

前回の読書メモで下記の記事を引き合いに出した。この記事を初めて読んだのはずいぶん前の話だが、まさかUNDERTALEの話でケアという言葉が出てくるとは思わず意外性があった。

歴史学者が、ケアを引き合いに出しながらゲームの話をし、それがアカデミアの世界で論文を書く意義と結びつく。

初めて読んだ時には、よく理解ができなかった。前回の読書メモに記したように、『まったく新しいアカデミックライティングの教科書』を読んだら、論文執筆とゲームの話はなんとなく結びついた。

そうなるとケアの話がぽっと浮いているように見えてくる。UNDERTALEのそれはケアと呼べるのか。なんで歴史学者がケアを題材に選んだのか。

そういえば、『政治学者、PTA会長になる』の中でも、ケアすべきことをケアできなかったという後悔の言葉があった。ケアというものは、日常生活のいろいろなところに埋め込まれているものなのかもしれない。

私は感情的なコミュニケーションが苦手だ。
居心地の良さを守っていくために、もうちょっと感情の出し方・受け取り方について知っておかないとまずいのかもしれない。

そんなわけで、なんとなく広義のケアについて何かわかるといいなぁと思い、ゆる言語学ラジオサポーターコミュニティDiscordで見かけて衝動買いしたこの本を引っ張り出して読んでみた。

医療従事者に必要な医療以外のスキル

この本は「日本看護協会出版会」が版元で、医療や福祉に携わる人を対象として書かれている。

読んでいてまず思ったのが、医療従事者は医療のプロであって、接客のプロではないということだ。例えば、多くの人が下記のような状況を経験したことがあるのではないだろうか。

「からだが熱いので、熱があるのかもしれない」と心配そうにする患者さんに対して、「いえ、体温は36℃5分、問題はないですね。」と応じる医療従事者。

P39

たとえそれが主観的なものに過ぎなかったとしても、身体に異常を感じている時は、かかりつけ医に診てもらうのもそれなりに大変である。

発熱外来が必要であれば事前に電話をかけなければいけない。保険証と診察券を準備して、自宅から医療機関まで移動し、保険証と診察券と引き換えに問診票や体温計を受け取る。待ち時間もそれなりにある。患者側から見れば、もう少し苦痛に寄り添ってほしいものである。

しかし、医師は多忙だ。診断を下すのに専念していて、そうした患者の負担にまで気が回らないことも多いだろう。

そうした感情労働を求めることが許される線引きがあるとしたらそれはどこまでで、どこからが過剰な不当要求になるのだろう。もっと愛想よくしてくれ、というのは、医者から見たら厄介な患者であろう。そうした本質的ではない業務は、燃え尽きの原因にもなるのだろう。

診断を下し、処方箋を出す。そのために医療機関で行われるコミュニケーションは事実のやり取りが中心になる。患者の主訴、体温やアレルギー等の情報のやり取りである。実務としては事実の共有が主になる。しかし、患者に必要なのは単なるデータではなく、ケアを伴った治療である。

もう一つ載っていた腹話術話法の事例もおもしろい。
自分の意見を他者(話し相手の上司など)が言っていたことにして、噂話のように広げるもので、本書では患者が医者の悪口を看護師に向かって腹話術話法で話しかけてきたら、どうしたらよいかという問題が載っていた。

それで思い出したのが、沼にはまる人々を見つめる看護師のイラストなど意味不明なジョークイラストを掲載している看護師向け情報サイトだ。そのサイトに載っているコラムにも似たようなことが書いてあった。ただし、これは看護師同士の陰口の事例である。

狭いコミュニティでは、退屈しのぎか不満のガス抜きか、流言が手段として選ばれがちなようだ。SNSなど無くとも、人は情報の拡散を好むようだ。そして、対処法もSNSと同じだ。その場にいない人のうわさ話は拡散しないで自分のところで止めておくのがよいらしい。

患者の苦痛や退屈と、同僚の不満やストレス。病院の中の世界を生き抜くのにも、様々なスキルが必要になるのだろう。

ケアとゲームの共通点

この本の中では患者の問題解決の方法として、望ましい行動を相手といっしょに考えて促す「行動ルート」と、行動によって解決できない問題に対する見方を変える「認知ルート」が提案されている。どちらのルートを取るかはケアを行う側が、相手の問題に応じて考えることになる。

また、ケアを「型を覚えれば誰でも実践可能なもの」であるとし、手順をABCDの型に落とし込み、それぞれのステップに必要なスキルが紹介されている。そのスキルを身に着けるための練習問題もあり、模範解答として想定問答も載っている。

これらを見ていると、RPGを連想してしまう。「ルート分岐」や「型」の通り進めていくための「スキル」という名の「選択肢」。RPGだ。

人間は必ずしも「目的・手段・結果」の枠組みを内面化しているわけではない。仮に内面化していたとしても,常にこの枠組みで行動するほど「合理的」な存在ではない。ケアの議論もそうである。(中略)現実はもっと複雑だ。

https://www.4gamer.net/games/389/G038984/20240702009/

実はこの本においても、ケアを伴う対話は目的志向であり、ケアを行う側が対話のリズムの主導権を握るべきであると主張され、そのためのスキルが紹介されている。まさに「目的(問題解決)・手段(スキル・型)・結果(フィードバック)」の枠組みである。

もちろんケアはゲームではない。この本では先述の内容と合わせて「いつでも感謝してもらえるというものではない」ことが明記されている。現実のケアはゲームのように適切な選択肢を選べば常に適切な結果が返ってくるわけではない。

また、ケアを行う者が燃え尽きてしまうことも考えられる。そのことを踏まえて、「患者の問題は患者の責任である」ことが明記されており、明確に自他を分離することを推奨している。具体的には、決められた場所で決められた時間に行うことで、ケアを他と区切って明確にする。

そうすると、限られた時間で問題の特定から解決支援までを行わなければならない。そうした制約に対応するために、題名にある「ABCDの型」が提案されている。結果として、この本におけるケアの構造はゲームと近似していく。

型を覚えれば誰でもできるは本当か

プロではない一般の人が応急的に、あるいは日常生活の中でケアを行うこともあるかもしれない。異なるスキーマを持つ者同士の仲裁から、親しい人の悩み相談にのる場合まで、いろいろなことが考えられる。

一般の人がやむを得ずケアを行おうとする場合、この本の内容は必ずしもそのまま使えるとは限らない。

例えば、同僚、家族、クラスメートなど毎日顔を合わせる関係性であれば、ケアの時間と場所を厳格に定めて日常生活との境目を明確にすることは難しいだろう。

また、プロと来談者がゼロから関係を築くのと異なり、身近な人の相談に乗る場合は、日常生活の中での関係(同僚、家族、●●友達など)とケアの時の関係性(支援者と来談者)が併存することにもなる。

ケアの開始・終了・再開の合意を取ることが難しくなるので燃え尽きが起きやすくなるだろうし、型に従って行動や認知を動かす際にも距離感の近さが障壁となる可能性がある。

しかし、相手の課題をアセスメントするスキルや共感を示すためのスキルは一般の人でも有益になると思った。専門家までつないだり、一時的に持ちこたえたりするのには、相手を受容し負担を軽減する共感や、いっしょに問題を考えるための信頼関係が必要になる。これは型で言えばAからBまでの箇所に相当する。

また、場に参加するメンバーへのケアは組織をより良い状態に保つためにも必要になる。例えば、『政治学者、PTA会長になる』で見られたような、仲裁が求められる場面では、感情を受け止めて共感を示すことが役立つかもしれない。

その場合、ケアによって言葉が届く素地を相手との関係性の中に生み出した(この本では「関係をONにする」と言われている)後が問題になるだろう。共感によって双方と自分の関係をONにしても、方向性を見いだせないと板挟みになるばかりで軟着陸させることができなくなってしまう。

それでも部分的には役立たせることができるだろう。自他の感情への対処や、問題の発見から解決までをサポートする対話は、何かしらの組織に属していれば誰しもが関心を持つ事柄だろう。

練習問題の中には2人1組のペアワークもある。場を用意して準備しなければできない内容が多いが、内容自体は医療従事者でなくても行えるものになっている。研修の題材としての活用も考えられる。
練習問題を見ていると、相手の思考を活性化する聴き方という点では、コーチングに通ずる要素もあるように感じた。

1人で行う練習問題は、感情の語彙を増やすもの、普段の日常会話の中で意識して行うものも含まれている。自分には多少ハードルが高く感じたが、誰でもやろうと思えばできる内容であることは確かだ。

こうした本が出ているということは、逆に言えばトレーニングしないと身につかない、最初からできるものではないということでもある。

相手の感情にフォーカスした聴き方をするだけでも違ってくるかもしれない。少しずつ積み重ねていこう。

と本を読んでいると思うんだけど、職場で作業している時に人から話しかけられた場合でもこの本で書かれていることが実践できるか。やっぱり専用の場を設けて練習しないと難しいかもしれない。少なくとも内省的でありたいとは思う…

結局、歴史学者がどんな理由でケアに感心を持っているのかは分からないけど、ケアとゲームと論文執筆は構造が似てるという話が自分の中でたぶん腹落ちしたのでよし。
記事が引用している『ケアリング・デモクラシー市場、平等、正義』を読めば、分かるかもしれない。積読しようかな。

ミシェル・クエヴァス 著 杉田七重 訳『イマジナリーフレンドと』

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空想の効用

好きなインディーゲームの中に「ファンタジーと見せかけて実は現実を生きる主人公の空想でした」というオチの作品がたくさんある。

主人公はファンタジーの世界を冒険する。その空想を通じて、何らかの心理的な変化が起きる。
その変化が前向きなものであれば、現実と向き合い、それを変える一歩になる場合もある。逆に空想の世界に閉ざしてしまい、現実の人生に戻ってこられなくなる場合もある。こうした空想の在り方は、空想が現実逃避のために行われると同時に、現実無しでは成り立ちえないことを示唆する。

そうした描写をたくさん見てきたので、空想と現実は互いに関係があるが、明確に切り離された別の世界であるという感覚がある。しかし、この本を読んで、AR(拡張現実)のように「現実の中に投影される空想」というものがあることを知った。イマジナリーフレンドは夢や想像の世界に住んでいるのではなく、現実世界に住んでいる。それも、自我を持って。

構造の倒立

実はこの本、「自分がイマジナリーフレンドであることに気づいていない、イマジナリーフレンドが主人公」の物語だ。

直接的には本文の中盤を読まないと分からないようになっているが、帯文や出版社HPのあらすじによって明かされている。よって、大人の読者は想像する側の視点ではなく、想像によってつくられた側の視点で語られる物語であることを知っている状態で読むことになる。

こうした構造は今まで見たことが無かった。想像される側が主人公なのだ。
主人公が自分の空想によって作った世界にのめりこむのではなく、空想によって作られた存在が現実世界を生きる物語だ。

ちなみに、原題はConfession of an imaginary friend(とあるイマジナリーフレンドの告白)だそうで、TIME誌が選ぶ児童書Top10に入っているそう。

ここからネタバレ(見る場合は右にスクロール)

                                                      ・これはTop10にも入るわ、3回泣いた。1つの小説に泣きポイントがそんなにあるのって初めて。                                                     
                                                      ・職業安定所の場面で、イマジナリーフレンド版ブラッシュアップライフかい!と思ってしまった。
                                                      ・フォスターズホームという海外アニメの第1話を思い出した、第1話が完璧すぎて&エモすぎてもうこれ以上は蛇足なんじゃないかと感じてしまい、第2話を見る気にはなれなかったカートゥーン。
                                                      ・潔癖症の両親への反抗としての靴下、双子の兄設定の親友、ローラースケートの女の子、人間社会の価値基準とは違ったところで自分を肯定してくれる存在である子犬。
                                                       楽しみを分かち合い、自分が自分である限り肯定してくれる存在としてイマジナリーフレンドを構築している
                                                       決して都合よく支配するような関係性ではなく、互いに友好的な感覚になっているのが印象的。
                                                       ジャックは自由を得た方法も、決して反抗的なものではなく、尊重し合う感覚が互いにあるのが健全な親友として映る。
                                                       →職安の求職票に「想像上の敵」という役職があることから、そうでない想像上の存在がいることを示唆している。
                                                       (TEDトークに出ていた内なる声に悩まされ続けてきた女性(最終的には克服して味方につけた)のことを思い出した)
                                                      ・空想の犬で世話するところを想像するうち、本当に犬の世話をする方法が身についていくの、プロジェクションサイエンスみがあって良い(それを本当にプロジェクションサイエンスと呼ぶのかは知らないけど)
                                                      ・装丁に仕掛けがある。是非手に取ってみてほしい。粋。 

思い付きで使ってみたけど、コード埋め込みの機能をネタバレに使うのは見づらいだろうか。ネタバレを隠す機能ほしいなぁ。テキストファイルとかでアップしても良いのかもしれないけど。

長谷川まりる 著 『杉森くんを殺すには』

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殺意の行方を見守る覚悟がない

想像の余地がたくさんある、引きのある装丁でつい衝動買いしてしまった。けど、人が殺されるミステリーが苦手なのだ。辻村深月の『子どもたちは夜と遊ぶ』を挫折した程度に。
だから、改めて版元の公式サイトを見て予習してみた。

ここでは序文が読める。そこでは、杉森くんを殺すことは、熟慮を重ねたうえでの決断であることが分かる。親戚か兄と思われる人物"ミトさん"が主人公"ヒロ"の意向を聞き入れ、犯行前の心構えとして後悔の無いようやりたいことをやりつくしておくことを挙げる。犯行を否定せず、味方であり続けると伝え、最後まで見守る覚悟を見せる。
殺意の理由のひとつ目が、今までの決意の割に小さな、でも不可逆な意地悪に由来するものである。淡々とした語り口で、人間性を取り戻すためには、殺意を抱く以外の方法がないのだという。

謎だ。

一人称小説は証言を集めて人を裁くような読み方をしてしまう

この小説は一人称視点で描かれている。一人称小説には、登場人物一人の視点に絞ることで、トリックや感情表現が多くなる。

殺意をほのめかすタイトルで一人称視点だと、なおさら、人を疑い、裁くような視点で読んでしまう。

杉森くんはどんな恨みを買ったのか。本当に殺意に値する人間なのか。それとも逆恨みなのか。追い詰められているのか、語り手がどのくらい信頼に値するか。

感情移入しすぎると全体像を見失ってしまうような気がするし、かといって鵜呑みにすると見落としてしまう要素がたくさんあるような気がしてくる。

一人称の語りでは語り手に見えていないことは描写されないし、語り手が不利になるような事実も省かれていることも多い。

そういうわけで、語り手の話を聴くのは骨が折れるが、やはり距離感には気を付けなければならない。

結局のところ、"分からないことは分からない"と判断を留保しながら読むことが必要だ。

判断や評価を入れた読みしかできなくなってしまうと、『政治学者、PTA会長になる』の著者と同じようなケアを欠いた見方になってしまうし、相手にとっての真実を見落とすことになってしまう。

ここからネタバレ(見る場合は右にスクロール)

                                                    ・巻末にある相談ダイヤル、こういうのは言語化が得意な人にしかかけづらいだろうと思っていたら、作中でも主人公と良子さんの態度を通じて、何もかも言語化しなくてもよいというメッセージを入れ込んでいるのが秀逸。
                                                    ・主人公の言動を通じて、悩みや後ろめたいことへの対処を学べる構造になっている。
                                                    ・良子さんができる子過ぎて逆に不安
                                                    ・良薬口に苦しというが、その苦さに耐えられない時にうまく向き合えるようにする専門知のある人、相性のよい相談者と出会えるかどうかが難しい。
                                                     杉森くんとスクールカウンセラーとの対話がうまくいかなかったように、来談者と専門家のマッチングがうまくいくかという課題があるような気がする。
                                                    ・(主人公の話を鵜呑みにするならば)杉森くんの見捨てられ不安スキーマ(?)的言動が読んでいてけっこうしんどかった。実際にこういう人がいたらどうするのがよいか。
                                                    ・依存された人を支えるには、依存先を分散させるか、依存された人が頼れる場所をつくるか。
                                                    ・OMORIをプレイした人に読んでほしいと思った。最後のミトさんと主人公の対話は、ヘッドスペースとトラウマへの対処に通ずるものがあるような気がする。
                                                    ・適切な時期に適切な人や情報と出会える保証はない。この本が助けになると良いけど、この本もまた、必要としている人に届くかどうか。ヤングアダルト小説を置いている書店が本当に少ないように思う。
                                                    ・高校の教科書から山月記が消えつつあるそうなので、P128のネタが通じなくなる可能性がある。論理的思考の文化的基盤の過渡期だ....
                                                    ・前出の『ケアする人の対話スキルABCD』も本書の副読本として適しているかもしれない。
                                                     例えば、序文は次のように「型に沿って行われたケア」として解釈することもできる。
                                                     苦手な電話でもワンコール以内で出て、大丈夫かと尋ねるのがA、
                                                     否定せずに話を聞き、殺すという決断を復唱して咀嚼するのがB、既に杉森くんが亡くなった後だが、ヒロの心情に寄り添った結果、文字通り「人殺し」と解釈しているのも。
                                                     14歳未満かの確認などの質問による具体化から責任能力の話に展開していくのがC、
                                                     自分は常に味方であると伝えるBを改めて行い、「やり残したことをやる」「理由をまとめておく」という助言がDと捉えることもできる
                                                     

まとめ

一見すると全く無関係な題材を扱った5冊なのだけれど、改めて見るとやんわりとしたつながりがあるような気がしてくる。本と本の間につながりが生まれてくるのも読書の面白味の一つかもしれない。

(ネタバレを含むので見る場合は右にスクロール)

                                                 『学力喪失』:認知科学による教育の改善、視点の相対性などスキーマの修正・獲得

                                                 『政治学者、PTA会長になる』:理論や外形上の効率性=政治学者スキーマによる認知によってケアを怠った反省

                                                 『ケアする人の対話スキルABCD』:ケアの具体的なテクニック

                                                 『イマジナリーフレンドと』:空想の効用、実在しないものを現実に投影する(プロジェクションサイエンス?)
                                                 
                                                 『杉森くんを殺すには』:燃え尽きによるケアの破綻、兄による応急的なケア(ABCDの型に沿っているように見える)、
                                                             自分が現実世界の杉森くんを殺したことにして、自身の内面に投影されたリトル杉森くんと共存する(プロジェクションサイエンス?)
                                                             回復のための人間関係再構築
                                                             非言語によるセルフケア(彫刻刀での作品作り)

                                                 

積読チャンネル非公式企画参加記事

好きなYouTubeチャンネル『積読チャンネル』が、面白そうな本と出会い、面白かった本を語り合う有料会員コミュニティ「積読サロン」を創設しました。
チャンネル視聴者でなくとも、積読が1冊以上ある人で本と出会うという趣旨に共感した人は誰でも加入できます。

その中で、有志のメンバーが12月1日からクリスマスまで毎日交代で記事や創作物を公開する非公式企画「積読チャンネル非公式 Advent Calendar 2024」を行っています。

本記事はそのアドベントカレンダーの7日目の参加記事です。
個性豊かな記事が更新されますので、他の方の記事もぜひどうぞ。

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そして、ゆる言語学ラジオ本大賞の日

不朽の名作が読み継がれているように、出版物は長いスパンで評価され社会に残っていくもののはずなのに、売れなくなると重版未定在庫限りになり、やがて絶版になっていく。
そうなる前に埋もれた本を発掘しようという「ゆる言語学ラジオ本大賞」の発表日が本日です。
楽しみ!

ちなみにこんなエッセイ本もあるらしい。

今のところ絶版本を読みたいと思ったことはほとんどないけど、読むとしたら古本を探すか、図書館に頼るか、20年くらい以内だったら電子書籍を探すか。

復刊ドットコムを始め、復刊をねらう取り組みもあるけれど、絶版を回避する取り組みという点でゆる言語学ラジオ本大賞のような取り組みが増えるといいなぁ。

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