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二つの巨星と豊島園~小川栄一氏から堤康次郎氏へ~

 寂れた豊島園を再興し、現在まで続いてきた礎を築いたのは、藤田観光の創業者として知られる小川栄一氏だったという事を前記事「豊島園の最初の閉園危機と小川栄一氏」にてご紹介しました。

 その小川栄一氏は昭和16年に豊島園を手放し、豊島園経営のために設立した「日本企業」という会社は、西武鉄道の前身である武蔵野鉄道に吸収合併されました
 年表で言えば一行で終わってしまう事ですが、この出来事は「財界のブルドーザー」と呼ばれた小川栄一氏「ピストル堤」と呼ばれた堤康次郎氏という二大巨星が交錯した瞬間として、としまえん94年の歴史の中でも特に注目すべき出来事です。
 両者とも昭和の日本経済界に名を轟かせた二人であり、堤氏は箱根の観光開発で東急グループの五島慶太氏と「箱根山戦争」と呼ばれる輸送シェア争いを演じますが、同じく箱根で小涌園を開業していた小川栄一氏も「第三の男」として、箱根山戦争を描いた小説等には登場しています。また、東海汽船の社長も勤めた小川栄一氏は熱海―大島航路を巡って、伊豆箱根鉄道社長でもあった堤康次郎氏と係争関係となったりと、この後何度か対立したり、手をとったりしながらそれぞれの道を歩んでいくのですが、その二人が初めて出会ったのが豊島園についてのやりとりだったのです。

 両者とも本当に多岐に渡って活躍し、読み解くにも一筋縄ではいかない人物なので、資料の収集とまとめに非常に手間取りましたが、このまま停滞するわけでにもいかず、ここでは現段階で書ける事を書いていくことにします。

堤氏が武蔵野鉄道の経営に乗り出すまで

 堤康次郎氏は一代で西武グループを築き上げた稀代の事業家であるとともに、第44代衆議院議長を務めた政治家でもあり、その人生は波乱万丈、様々な側面が伝わっておりとてもここで紹介しきれるものではありませんが、豊島園と出会うまでの彼の経歴をここでは「近代企業サーチ(1985年、中小企業経営管理センター事業部)」に基づき簡単に紹介します。

 堤康次郎氏は明治22年(1889年)滋賀県愛知郡八木荘村(現在の愛荘町)に生まれました。彼は5歳で父親を亡くすと母は実家に戻る事となり、父方の祖父母に育てられることとなりました。幼くして両親と別れた康次郎氏は、八木小学校の高等科を優秀な成績で卒業し、彦根中学校へ無試験で進学することが決まっていたのですが、祖父母は繁華街のある彦根で寄宿舎生活を送ることに不安を抱くようになります。

 この祖父母の心配ぶりを見た康次郎は、
「おじいさん、そんなに心配するんなら、彦根中学に入るのはやめましょう。そうして村で百姓をしますから、どうか安心して下さい」
 こういいきって、サッパリ中学へ入る事をあきらめて、すぐその日から畑にでて百姓仕事に精を出した。

 こうして祖父母の農業を手伝う事にしたのです。

 朝から晩まで農業に従事する生活の中で17貫(約64kg)の米俵も楽々担げる程腕っぷしが強くなった一方で、勉強熱心な堤氏は作業の傍ら農業に関する本を片っ端から読んでいきました。すると近隣農家の畑にリン酸が不足している事に気づいて、大阪からリン酸を仕入れて販売する事業を開始。残念ながらこれは失敗に終わるのですがこれが堤氏が最初に行った事業であり、この時彼はまだ15歳でした

 勤勉な康次郎氏を見た祖父が4年後進学を許したため、堤氏は旧制中学5年間分の勉強を一年の猛勉強によって追い付き、卒業資格を手にします。そして一度は愛知郡役所に勤務しますが、祖父が亡くなると再び勉強をする事を決心し、田畑を担保に入れて資金を作り、早稲田大学に進学するのです。
 早稲田大学に入学してからも堤氏は事業を行い、成功と失敗を繰り返します。それはここでは紹介しきれませんが、それらの経験が後に堤氏が大成する糧となっていきます。

 堤氏の代名詞となっている土地開発に着手しはじめたのは大正七年。軽井沢の土地を購入し、有料道路をつくり、温泉を引いて一大別荘地としての開発に成功しました。
 そして大正八年に箱根の土地を買収し同様に土地開発を始める一方で、東京の近郊地域の開発にも着手します。大正9年に開発した「目白文化村」、大正12年に開発した「渋谷百軒店」は東京大空襲の影響もあって現在は面影がありませんが、大正13年頃に土地を買収して建設したのが「大泉学園都市」「小平学園都市」「国立学園都市」です。
 現在は周囲も宅地となっていますが、航空写真を見ると、田畑が住宅街の拡大によって宅地化した地域とは異なり、明らかに区画割さてて計画的に開発されたエリアがあることが確認できます。

 大泉学園都市には学園を誘致できなかった事は知られていますが(学芸大附属大泉は学園都市とは反対側です)小平と国立には関東大震災の被害を受けた一橋大学の誘致することに成功しました。

 しかしこの宅地開発の中で、熱心に土地開発を行っても鉄道が整備されていない事には価値が上がらない事を痛感します。
 そこで堤氏は大泉学園都市の最寄り駅として武蔵野鉄道の「大泉学園駅」、国立学園都市の最寄り駅として国鉄の「国立駅」を建設して寄贈したほか、小平学園都市の足として多摩湖鉄道(現在の西武多摩湖線)を創設。南の終点を国鉄の国分寺駅に接続させるだけではなく、多摩湖を芦ノ湖に見立て、狭山丘陵を第二の箱根に仕立ようという目論見から、北の終点を多摩湖の湖畔の駅にしたのでした。

 このような経緯から武蔵野鉄道(現在の西武池袋線)、西武鉄道(現在の西武新宿線)の株を購入。やがてその経営権を握るに至ります。
 また大正13年には当時の滋賀5区から土地改革を公約に衆議院議員に立候補して当選。大正時代の間に自らの地位を確固たるものにすることに成功したのです。

小川栄一氏から見た、豊島園を巡る堤氏とのやりとり

 この堤康次郎氏との豊島園をめぐるやりとりについて、小川栄一氏は主に二つの随筆を残しています
 一つは文藝春秋1953年7号(㈱文藝春秋)に寄せた「堤康次郎という男」、もう一つは「私の履歴書第19集」(日本経済新聞社1963年)です。「豊島園の最初の閉園危機と小川栄一氏」で紹介した「我がフロンティア経営」は基本的には「私の履歴書」を書き直したものですが、堤氏についてはほとんどカットされています。
 堤氏との交際について、「堤康次郎という男」で小川氏はまず下記のように書いています。

 私と堤とは十年ほど前から利益相反したり、一致したりした交際をしてきた。
 彼と知合にならざるを得なくなった事の起りは、私が安田信託の貸付をやってゐた時の頃だ。當時の武蔵野電鐵(西武電車)を堤がやつてゐたが、額面五十圓の株が一圓二十銭といふ始末で、到底、巨大な電気料は拂えなかつた。
 堤の指示で、社長の山名義高が思ひ切つて會社を改革しようといふ事になり、私の所にやつて来た。その話が振つてゐて、株主も十分の一に減資するから、債権も十分の一に切り捨ててくれといふことだつた。

 普通に考えれば通る訳がない申し入れですが、既に堤氏が政治家であり、事業家としても「恐ろしい人物」として知られた存在であったことから、安田銀行は対応に困ります。

 安田の重役達はどっちにしても取れない様な債権だから聞いてやればいいぢやないか、といふ意見だつた。これも、堤に睨まれたら因果だから妥協するほうがいいよ、といふ。要するに、どこかでシッペ返しを喰ふか判らん―といふ財界の人達が皆持つてゐる堤観からであつた。
 それでたうとう、妥協して折合ふことにした。これが私と堤との知合の発端である。

 堤氏が武蔵野鉄道の株を買い集めたばかりの頃、小川氏いわく同社は「ボロ鉄道」であり、銀行側はどうせ不良債権だと判断していた事と堤氏怖さでこの条件を飲むように小川氏に指示し、この時は小川氏はそれに従いました。
 しかし、この数年後、既に安田銀行を辞めた小川氏は豊島園を巡って堤氏と直接相対することになるのです。

 同社は起死回生をはかるべく、私の経営する豊島園に目をつけた。豊島園はそのころようやく庭の整備もできて、日曜ともなると、何万人という人が同園を訪れるようになっていた。
 この豊島園は武蔵野鉄道の沿線にあったのだが、同社は二十分おきにいちばん小さな電車しか出さないようにした。こうして豊島園の経営を追い込んで合併しようというハラである。私はおこった。(私の履歴書第19集)

 この豊島線減便事件についてはあくまで小川氏の弁なので、どこまで正しいのかは分かりません。実際豊島線は現在でも15分に一本程度ですし、当時は周囲は宅地開発も進んでいなかった状況なので、「一番小さな電車」が何両編成だったのかは分かりませんが、20分に一本が果たして少なかったのか、真偽は分かりません
 ただ少なくとも小川氏が豊島線の本数に不満を持っていた事堤氏が豊島園を欲していたのは事実のようで、小川氏と堤氏は、堤氏の自宅で対峙する事となります。

 私はこれに対抗、古巣の安田信託に頼んで同社(資本金250万円)の債権者にある優先株(180万円)を押えた。驚いたのは堤氏だ。ことをうれえた小高常務は「われわれでは解決できない」ということで、結局、私と堤氏が会うことになった。堤氏は私を大いに驚かそうと思ったのか、抜き身の刀を床の間に並べ、自宅の柔道場で若いものをどんどん投げとばしていた。

 面会の約束がどのように行われたのかは分かりませんが、堤氏の方が年長とは言え、柔道の稽古中に面会するというのはかなり異様ですね。
 ただ、武道場に日本刀が飾られている事自体はそこまで不思議な話ではないのではないようにも思います。

「堤さん、あなたは何も存じないかもしれないが、武蔵野鉄道を整理したのはこの私だ。借金の八割を切り捨てたんだから、日本一借金のない鉄道じゃないですか。その恩人である私が社長をしている豊島園に客を送らない工夫をしたのは一体誰ですか。」
「ほう、そりゃわしは知らん、おれに手柄をするために山名がやったのだろう。」
「それではこの問題はきわめて簡単だ。責任者をあなたが出せばすべて白紙にかえしましょう。」
 堤氏は泣く泣く山名氏を切った。

 こうして堤氏は責任を武蔵野鉄道社長の山名氏に取らせ、山名氏は社長職から解任させられます一方小川氏は堤氏と十何回か会った後、豊島園を堤氏に譲っているのです。
 その理由について明確に書かれたものはありませんが、小川氏は「私の履歴書」でその様子をこう書いています。

 私は武蔵野鉄道の株を買い入れた五十円(当時七十五円)の価格で安田信託に戻した。というのは、この膨大な差益金が私にはいれば、私はいよいよ酒と女の中にいるようなことになるからだ。ついで豊島園もあっさりと堤氏に譲った。堤氏はそのとき、私に「鉄道の社長になってくれ」と言ってきたが、私は「鉄道には興味がない、それにあなたとは人生観が全く反対だ。あなたは戦国史の愛読者だが、私は非愛読者だ」と言って断った。


なぜ小川栄一氏は豊島園を手放したのか

 このように小川栄一氏は豊島園から身を引いたわけですが、なぜ小川氏はそのような決断をしたのでしょうか。もちろん、豊島線の増便を武蔵野鉄道がしてくれなかった事もあるのでしょうが、一番の理由のヒントが「あなたは戦国史の愛読者だが、私は非愛読者だ」という言葉にあるように思います

 堤は「僕ほど戦国史を愛読したものはない」とよくいふが、彼は愛読しただけではなく実行した人である。彼の信条弱肉強食である。
「小川君、戦国史を愛読しなければ実業界には立てないよ、二宮尊徳でもだれでも道徳家で事業に成功した者はない。なんでも戦争だ、だから戦国史を嫁、自分の部下に一城を預けたら、皆、明智光秀になる。だから自分の後の者は弱くて忠実でなければならない。」

 堤康次郎という男は事業では他社と戦い続けました。堤家を研究した書籍では様々な事業や土地の買収で他社と競争していた事が肯定的にも否定的にも紹介されています。また、西武がトップダウン型の企業だったのも事実でしょう。
 それに対して小川栄一氏は競争には興味がなく、誰も目を付けていなかった新規事業の立ち上げや、寂れてはいるけれども再生の余地がある既存事業の立て直しに尽力した人で、事業に対する捉え方が明らかに異なりました。
 堤氏は豊島園を買う、と決めたら買うまで戦い抜く覚悟があったのでしょうが、小川氏は堤氏と争う気になれなかったのでしょう。争うくらいなら、別の事業で頑張ろうと頭を切り替えたに違いありません。また、小川氏は堤氏の事業家としての手腕は認めていたのだと思われます。
 当時は各鉄道会社が遊園地を持っていた時代。堤氏によって立ち直りつつあった武蔵野鉄道に、小川氏が最終的には豊島園を託そうと思ったのは自然な流れだったのかもしれません。

 ところで、小川氏は堤氏の事を誤解していた節もあるように思います
 下記は「堤康次郎という男」で、豊島園の話をしに堤氏の元へ小川氏が訪れた時の様子の引用です。

 見ると、床の間に抜身の銘刀が置いてあった。
「ああ、あなたがピストル堤といはれるのはこのことですか。」
「ナンだ、君、知ってゐたのか、オレの渾名を……」
 かういふ時の堤はいささか得意さうだつた。こんな無邪気な點もある人である。
「ピストル堤」の渾名の由来は私はよく知らないが、金の催促でもされた時に脅かしたのであらう。興銀、勧銀、あたりの人がよく知つてゐる有名な話であらう。

 ここに書かれた「ピストル堤」にまつわる文章、ほぼ小川氏の推測なのです。
 そもそも先にも書きましたが、武道場の床の間に日本刀が置いてある事は決して珍しい事ではないですし、それを小川氏は脅しだと受け取ったようですが、小川氏が見たのもピストルではなく床の間の刀です。堤氏がピストルで実際に脅したという話は記録としては見つかりません。
 これについては「近代企業リサーチ」に方にこういう記述があります。

 ある日 大化会の岩田会長が堤を訪れ、堤の持っている駿豆鉄道の株を売れと脅迫したのである。岩田は駿豆の白井社長にたのまれてやってきたのである。ところが堤は、
「ワシは駿豆の株を金儲けをしようと思って持っているのではないのだ。箱根を開発するためには、どうしても伊豆と関連してやっていく必要があると考えてのことである。だから株の売買はしない。」
と断ったが、岩田はなかなか引き下がらず(中略)
 最後には、岩田は六連発のピストルを堤に向って銃口をむけながら、なおも売却を迫った。
「駿豆の株を売れ」
「いや、断じて売らん」
 こうして押し問答のあり、岩田は遂にピストルの引金をひいた。瞬間、轟然たる音響とともに一発の弾丸が、堤の首筋をかすめて飛んだ。それでも堤は、株を売るとは言わなかった。

 大化会というのは右翼団体です。このように、ピストルで脅されたのは堤康次郎氏だったのです。同書には続けてこのように書かれています。

 これがピストル堤のニックネームの由来であるが、世間では、どのように誤解したのか、堤が常にピストルを携帯していて、交渉がうまくいかないと、ピストルをちらつかせて相手をおどしている―。そこで、ピストル堤とニックネームで呼ばれるようになった、と思い込んでいるのだ。真相はあべこべで、堤が狙撃されたのである。ただこの経緯をのちに藤田観光の社長となった小川栄一(故人)が、某雑誌に書いた随筆のなかでピストル堤と断定的に書いたのがマスコミに誤って使用されたものである。

 そもそも小川栄一氏は豊島園のことも「我がフロンティア経営」で、

 当初は大川、田中、藤田(好三郎)家といった大金持ちが、自分の子供かわいさと一族の誇りを示す場として、ソロバンを無視して作り上げたバカでかい庭園にすぎなかった

と書いていますし、少しせっかちな解釈をしてしまう癖があったように思われます。そう考えるとはたして20分に一本の豊島線が堤氏の嫌がらせだったのかというのも、本当の所は分かりません

つかず離れずの二つの巨星

 堤氏と小川氏は最初に書いた通り、これで喧嘩別れをするでもなく、つかず離れずな関係をこの先も続けていきます。実は小川氏が小涌園を開業する際に、招待者を乗せたのも西武のバスでした。

 招待客を箱根まで運ぶのに、なんで行ったかというと、今から思うとおもしろい?ことに『西武』のバスで行ったのだ。
 箱根は当時、堤さんのナワ張りであった。
 私は「小涌園」を開くに当たって、一日、堤さんのもとを訪れた。
「あなたは苦労して箱根を開発されたが、こんど『藤田』の邸を旅館として開放することにしましたから、ひとつよろしく」
 堤さんはライバルになると思わないから、私の箱根乗り出しに大いに賛成してくれた。
「しかし、君、あそこは温泉が出ないだろう」
 おそらく堤さんとしては、温泉の出ない箱根の旅館など、およそたかが知れてると思ったに違いない。
「ええ、今のところはわかし湯ですが、そのうちに出して見せますよ」
私はこう答えたが、じじつ、私にはひそかなる自信があった。
その話は後に譲るとして……、この日は、堤さんにことの次第を話して、バスのあっせんをお願いした。

 そんな二人には共通点もありました。その中で特に注目すべきなのは緑を愛していたという点です。

 私もまた人一倍緑を愛するほうである。荒廃した東京の豊島園を破産一歩手前で復興することができたのも、緑への因縁であると思う。それはいまから三十九年前のことである。
当時三十五歳の私は、株式会社豊島園の社長となり、植木職とともに心血をそそいで緑の復興に協力、二年ほどで遊園地豊島園は生まれかわったように復興した。そのころの東京の人口は日本全体の人口の一割で約六百万人、その全人口の九割は庭のない人々であった。この庭なき人々のために、共通の庭をつくろうとしてあらゆる努力を傾けた。このときほど人生の生き甲斐を感じたことはなかった。
 現在藤田観光の傘下にある椿山荘は、第二次世界大戦の結果焼野原と化したが、私は豊島園復興当時のことを思い、勇気をふるいおこして緑の椿山荘づくりに奔走した。

 一方の堤氏も土地開発の中で樹木に関しては神経質なくらい気くばりをしていたそうです。「近代企業リサーチ」には「樹木についてのエピソードを集めると、すぐノート一冊になってしまうほどである」という前提で、2つのエピソードが紹介されています。
 一つ目のエピソードを以下に要約します。

 ホテルの建設現場でのことである。
 建設現場をすみからすみまで視察していくうちに、直径五0センチほどの樫の木が、六、七十本あまり青々と茂っているのが眼についた。
 堤は、すぐさま荒縄をもってこさせ、自分の手で、残すべき樹の幹に巻きつけ、「絶対に傷つけたり、切り倒したりしないように」と、現場責任者に厳命して帰った。

 しかし手違いでこの木々は現場責任者不在の時に伐採されてしまいます。すると、

 そのうちに、堤が再び現場にあらわれ、ものすごいカミナリをおとした。堤の叱り方が、あまりにもすごいので下請工事人たちはクモの子を散らすように逃げてしまった。

 また、もう一つのエピソードは自身の事業とは関係がない、国分寺の今村繁三郎邸の欅の木について、下記のように書かれています。

 東京都がこの今村邸を買収した際、邪魔になる欅は全部切り倒してしまえとばかり、作業にとりかかろうとした。ひょんなことから、この話を耳にした堤は、
「なんと心ないことをするやつらだ」
 といって、自分が直接知事に電話をかけて交渉し、そこの欅の木五十数本を全部買いとり、西武園ユネスコ村まで運びこみ、苦心しながら移植した。


 対照的ながら緑を愛する昭和の大実業家二人が交錯した地、豊島園。
 豊島園の歴史には自身の理想や信念に邁進し、時代を作った巨星たちの歴史も詰まっているのです。そしてそれは次の時代を切り開く若者たちにとっても一つのお手本、最高の地元の先輩たちの姿となるのではないでしょうか。

 としまえんは閉園しましたが、公園化の中でその緑を私たちの手によって再生するチャンスがあります。
 緑に触れながら豊島園の歴史も伝え、緑を育むとともに子供たちの未来を育む場となることを祈ります。

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