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[まちあるき話]歴史と地域をつなぐ。

 「天王寺さん」まで時々散歩をする。 朝の6時半にはラジオ体操の人たち。大師会(だいしえ)と太子会(たいしえ)の縁日は、植木や骨董、古着の露店が並び、人々でごった返す。  
 今日は平日の昼間。観光客、外国人、犬の散歩、のんびりした日射しの中。その時々で境内は表情を変える。

 1500年前、大陸の文化とともに、新しい宗教の仏教を支持する蘇我氏と、日本古来の神を崇める物部氏の2大豪族の戦いがあった。勝った蘇我氏側の聖徳太子は四天王寺を創建した。その際、守護として近辺に7つの神社、 四天王寺七宮を造営している。敗者の物部守屋を祭る祠もまた、太子殿奥殿の横にある。歴史は、勝者が上書きした記録でしか判断できないが、仏教VS神道の単純な話ではないようだ。 変化する時代の中で、「 和を以って貴しと為す」と説いた聖徳太子は、仏教徒というより政治家 として苦渋の道を歩んだような気がする。

 守屋祠を見ていると、おばちゃんが話しかけてきた。30年前まで、近所に住んでいたらしい。 女学校時代に太子殿奥殿に思い出があり、懐かしがっていた。町は様変わりしたが、ここは変わらないと満足げ。土産に 「釣鐘まんじゅう」を買って 帰るという。笑顔で語られる記録には残らない歴史を聞くと、こちらまで楽しくなる。そうは見えないが80歳を 過ぎているらしく、もちろん戦争も体験している。 
 天王寺区も空襲に見舞われている。六時堂や 元三大師堂は戦火を免れ、重要文化財に指定された。中心伽藍は創建当初の四天王寺式伽藍配置で復興を果たしている。ただし、鉄筋コンクリートで 耐火耐震構造と合理的。少し風情に欠けるが、これが大阪的なのだろう。
 大陸の文化は、難波宮から四天王寺、大道を通り斑鳩、平城京へ至った。東大門の遥拝石から伊勢神宮を拝み、南大門の礼拝石からは熊野権現を拝む。 たくさんの札所霊場とネットワークでつながる。

 今、四天王寺は多くの宗派や民間信仰を飲み込んで、「大阪の仏壇」として 親しまれている。時勢の良い時も悪い時も存在し続け、歴史をつなぎ、地域をつなげる。そして、聖徳太子の「和」の精神を未来へとつなぐ。

月刊誌「大阪人」/2010年2月号掲載
四天王寺みて歩き
イラストレーション&文⚫︎中田弘司

発行:大阪都市工学情報センター





2010年に書いた文章です。
最近は朝早くに散歩をしていないが、昼間はインバウンドなのか以前にもまして外国の方が多いです。現在、重要文化財の六時堂は保存修理工事中で、本尊の薬師如来さんは、境内近くに仮住まいされています。

四天王寺

今も、たくさんの札所霊場になっている。
西国33ヶ所観音霊場番外、新西国33ヶ所観音霊場第1番、近畿36不動尊霊場第1番、おおさか13仏霊場第4番、聖徳太子御遺跡霊場第1番、法然上人25霊場第6番、四国88ヶ所霊場番外、河内飛鳥古寺霊場第1番、摂津国88ヶ所霊場第25番、摂津国33ヶ所霊場第33番、西山国師16霊場客札所、大阪七福神めぐり第1番、西国薬師霊場第16番、なにわ七幸めぐり、神仏霊場会、











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