経験や勘? 科学的エビデンス? 哲学的素養?
某Twitterで『認知心理学者が教える最適の勉強法』という本の紹介がありました。2022年に出版、原著は2019年出版となっているので、おおむね最新の知見が紹介されていると見ていいでしょう。Twitterでの紹介者は、紹介の冒頭で「エビデンスに基づいた教育」ということに言及しています。エビデンスというのは「科学的なエビデンス(証拠)」ということでよいかと思います。
Twitterでの紹介者は、Twitterの冒頭で「あんたたち教員は経験に基づいて教育をやりすぎ。いろいろ有益な研究があるんだから、それに基づいてより効果的な教育をしないといけません。それが教師の役目ですよ。」という内容の本の紹介すると言っています。要は、「経験や感ばかりに基づいて教育実践をしていてはだめですよ」との警鐘です。そして、この警鐘自体には、もとより賛成です。
このTwitterとこの本の趣旨をきっかけとして以下のようなことを考えました。簡潔に書きます。
1.科学的エビデンスと哲学的素養
「科学的なエビデンス」も教育を企画し、教材を制作し、教授を計画して実践するための一つの教育者の素養です。その一方で、言語や文化(社会文化的な現実!?)、文化の生成と再生産、人間や文化の中での学びや発達などをめぐる哲学的な素養(現代の哲学的な思考にはたいてい科学的な知見が含まれている!)が必要だと思います。「エビデンス」だけだと、科学偏重の「片翼飛行」になってしまうと思います。
また、科学は、教育実践者が抱くさまざまな問いの一切に答えてはくれません。教育実践者が抱く問い自体が科学の土俵に乗るものではないという「制約」もあります。
そもそも教育実践者の問いは「貪欲」です。それに対し、科学は実は実際にはとても「謙虚」です。科学者は物事を決して断言しません。特に人文系の科学者は! 科学者が実践に向けて科学の成果を話すときは、「Existing evidences suggest that …」(現在ある科学的な証拠・証左の範囲で言うと、…というようなことが言えそう)という話し方をします。「わたしの提示することを参考にして、そこから先は実践者のほうで考えてね」ということです。自信満々に断言する「科学者」は、わたしは本当の科学者ではないと思います。と言うか、科学者の領分を越えた発言をしてしまっている人だと思います。それは言ってみれば、科学者の中で教育実践に強い関心を寄せている人が、あまりにも科学の知見を知らないし関心も寄せない(教育)実践者を目の当たりにすると、思わず言葉強く言ってしまうということでしょう。
一方、一方で「貪欲」でもう一方で「自信がない」教育実践者は、教育の内容(の捉え方)や教育の方法をめぐる「指針」や「支持」を科学に求める傾向があります。これは、端的に、科学信奉です。そして、以下で論じるように、科学信奉は大いに危うい!
2.(経験や感×科学的エビデンス)×哲学的素養=言語教育の専門職としての資質・技量
先に言ったように、Twitterでの紹介者ご指摘の「経験や感ばかりに基づいて教育実践をしていてはだめですよ」との警鐘には、もとより、と言うか、当然、賛成です。取りあえずは!? 当然のこととして!? せめて!? 科学的な知見は参考にしてほしいと思います。しかし、教育の広い意味での方法を考えるために参考にするべきは、科学だけではありません。教育を考えるためには、哲学的な素養もぜひ必要です。そして、言語教育を考える場合には、先に言ったような哲学的な素養が必ず必要だと思います。
科学的なエビデンスを綜合し(緩やかにもでも!)統合して、一つの思想(個人の思想でも、集合としての思想でも)にまとめ上げてくれるのが哲学的素養です。そして、とりわけ言語教育の場合は、科学的なエビデンスを十分に参照することと並行して、ひじょうに豊かな哲学的素養が必須だと思います。言語教育の場合は、(経験や感×科学的エビデンス)×哲学的素養=言語教育の専門職としての資質・技量、というような公式が成り立つのではないかと思います。
3.認知的な発達と、言語の習得や発達
ここでは、言語教育ということを、すでに第一言語を十分に発達させている成人(青年期の人は含む)における新たな言語の習得の支援として論じます。言語習得というのもそのような場合の(新たな)言語の習得として論じます。
学習や学びをめぐる認知心理学の研究ではたいていは、主として子どもにおける認知的な発達、より狭くは学校における教科(一般に、内容教科と言う)の学習に関心が向けられています。社会文化的なアプローチや文化人類学的な視点での研究では、学校的なタイプでない学びや、成人における学びなどに目が向けられていますが、広い意味で認知的な発達に目を向けている点は認知心理学の場合と同じです。
認知的な発達(典型的には、内容教科の学習と指導)と成人における言語の習得や上達は、根本的にと言っていいほど性質が異なります。学習研究や学びの研究を言語教育に応用しようとする議論では、ほとんどいつもこの質の違いを十分に認識してその橋渡しをする議論が欠けています。
言語教育をめぐる議論の重要点は、この両者の質の違いをめぐるクリティカルな議論だと思います。その議論をするための手がかりは科学は提供していないし、今後も提供してくれないと思います。そこは、実証主義の科学が「苦手」とするところだからです。そして、その議論の手がかりを提供してくれるのは、言語と人間と文化をめぐる哲学です。
4.科学偏重の時代の自覚
人間の知性というものを100年単位あるいは1000年単位(取りあえずは、ソクラテス以前の自然哲学者あたりまで)で振り返ってみると、わたしたちがいかに科学偏重の時代に生きているかがよくわかります。19世紀末から20世紀初頭にかけて、自然科学や数学の素養を十分に備えた学者・哲学者が当時の科学偏重に対して大いに警鐘を鳴らしましたが、科学主義の勢いにブレーキをかけることはできませんでした。そして、科学主義、科学偏重は、現代に生きるわたしたちが物事を考えたり物事に対処したりするときに「科学」や「科学的なエビデンス」を参照させます。
教育や言語教育を考える場合でさえ、そのようになっています。わたしたちは、そのことをしっかりと自覚しなければなりません。
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