『エッセイ』伝達手段だけではない、言葉とはいったい何だろう?
陽の光を切り分くるごと山寺の銀杏紅葉は荘厳の色
こんな歌を、以前詠んだことがある。山寺の、と言っても山形県立石寺のことではなく、どことも知れない山の小さな寺のことだ。心象風景、と言ってもいいかもしれない。
やっと近くの名所でも紅葉が見頃になってきたとおもったら、まだしばらくは暖かい日が続くらしい。ここからここまで夏、ここから秋で、徐々に気温が下がってやがて冬、といった、季節感の情緒などというものは、もう望むべくもないのかもしれない。
それにしても、報道番組のナレーションなどで、春の桜も秋の紅葉も、それから冬の雪景色も、どれも同じように「絵画のような」というのは何とかならないものか? 改めて言うまでもないことだけれど、そもそも風景が先で絵画が後なのだ。美しい風景を紹介するたびに、どれもこれもひっくるめて「絵画のような」というのは、気持ち悪くて仕方がない。
1.そもそもは声に出されていた言葉
ところで言葉って何だろう?
常日頃、そんなことを考えている。
言葉は伝達手段である、そう言う人がいる。言葉=自分、ではない、そう言う人もいる。どちらも間違いではないけれど、それが全てではないのでは、僕はそうおもっている。
万葉仮名というものがあった。基本、あれは表音文字だ。有名な、万葉集のオープニングに置かれた歌。
第二十一代雄略天皇の御製ということになっているこの歌を、古代そのままの発声で歌う、というのを、以前テレビで見たことがあった。甘樫丘か、どこかそのあたりで行われたものだったようにおもう。発声された言葉は朗々と、野を越え丘を越え、明日香の里に悠揚と広がっていくようだった。あの時代、歌は祈りであり(言葉は)声に出すことによる、まさに伝達手段だったのだ。そして、その万葉仮名表記がこちら。
文芸評論家で作家の小林秀雄が、「喋ることと書くこと」というエッセイの中で次のように言っている。
この点について、小林秀雄は印刷技術が発達して本が出版されるようになるまで、と言っているので、ほとんど明治以後、近代になるまでは書物は正誤の確認のためのものだった、と考えていたようだ。上にあげた万葉集の歌はその意味で、歌われたり語られたりしたまず最初のものだった。そうして万葉仮名は、ただ音を表すためにのみ作られたのだ。
2.言葉=自分ということ
ここで疑問におもうことがある。古代にあっては、言葉は単に伝達手段にすぎなかったのか、という点だ。
自意識、というのがどのように生まれ、育ってきたのか、僕は学者じゃないので全くわからない。しかし、現代人は考えたり悩んだり、というのを、概ね言葉で行っているはずだ。その場合、主語はまず自分だろう。もちろん相手のことを慮って、
など考えることはあるかもしれない。しかし、ほとんどの場合、
ということになるはずだ。
ところが、考えてみてほしい、これらは誰かに伝えるためのものではない(伝えることもあるにはあるが)。伝達手段としての言葉ではないのだ。初期の言葉が伝達手段にすぎないものだったのだとしたら、古代人は、いったいどんなふうに考えていたのだろう?
こちらのレビューで、その点について辻邦生さんは、「私」という意識が生まれる以前のことを、「物語る」という手法を語ることで、<対 大いなるもの>という視点で捉えられていたと僕は明らかにした。
それは、日本においても同じだったかもしれない。大いなるもの、すなわち神。あるいは、ひょっとしたら天皇だったかもしれない、ともおもう。なのでその時代は、言葉は伝達手段であるとともに、祈りであり、社会集団として神に捧げるための手立てだったのではないか? とすれば、少なくともその時代にあっては、 言葉=自分 はあり得なかっただろう。では現代は?
人は言葉で考える。そこにあるのは<自分の思い>だ。例え誰かの文章や、講演や、些細なお喋りから影響を受けたものであったとしても、「影響を受ける」という形で、それは自分のものになっている。なぜならそれによって感情を揺り動かされたのは自分だからだ。そしてそのとき使っている言葉は、例えば同じ、
などであったとしても、人によってニュアンスが違う。あなたがおもっている「苦しい」と僕がおもっている「苦しい」は、全く同じ状況下でも完全に一致することなどあり得ない。だとすれば、
そう言うことができるのではないか? そして、
そう、言ってしまってよいのではないだろうか? あなたがおもう、あるいはあなたが発する言葉はあなた自身なのだ。だからこそ、そこに「言霊」が存在する。
3.現代における書き言葉
ただし、書き言葉はまた別だ。書き言葉の意義は、その成立当初から大きくは変わっていないとおもう。今でもそれは記録であり、伝達手段のひとつだろう。ただ、書き言葉は文語体から口語体になった。そのことについて、小林秀雄はこう言う。
文語体が口語体になってより喋り言葉に近づいたと考えそうなところを、小林秀雄は
と言う。それは、
という結果を招くことになった。
随分耳の痛い言葉だけれど、少なくともまだ、声に出して読むことによる救いはあるとおもう。
そして、自分の言葉で書くということ
言葉は伝達手段であるけれど、自意識を持ったとき、言葉はそれを操るその人とイコールにもなった。けれど現代社会においてはその感覚が、再び失われつつあるような気もしている。自分自身でもある言葉を、こんなふうに誰にも読めるように表記するとき、小林秀雄が言うところの、「散文が詩を逃れてしまう」ことに、僕らは多少なりとも意識することも大切なのではないか、そしてそれは詩において、尚更考えられるべきことだろう、と、自戒の意味も込めて僕はここに記しておくことにする。
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