やさしさにふれる事が怖いあなたへ
やさしさというのは、あたたかくてやわらかいものだ。
そっと心を包んでふわっと軽くしてくれるものだ。
でも、それでも。
そんなやさしさがとても怖かったり、とても痛かったりする事がないだろうか。
それをそのまま素直に受け取る事が、出来なかったりしないだろうか。
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以前noteで書いた通り、僕は転職に失敗して無職となり、
絶賛人生どん底祭りの真っ最中だ。
転職の予定が"おじゃん"になるという、「やさしさ」からはかけ離れた所業に直面した僕にとって、やさしさは間違いなく必要だった。
でも、そんな僕も僕なりの理由で周りの人たちのやさしさにすぐに触れる事は怖くて出来なかった。
ただそうは言っても前に進む為にも"やさしさパワー"の恩恵にはあずかりたいところだったので、いつも通り自分を納得させるためにやさしさについて改めて考えてみた。
そこで自分なりに「やさしさとの向き合い方」について見えてきた事があったので、今回はそれを共有したいと思う。
やさしさが怖い人、やさしさが痛い人にとって「やさしさにふれる」際のヒントになれば、またこのnote自体がそんな人たちにとっての「ふれたいと思えるやさしさ」になればとても嬉しく思う。
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何故やさしさが怖いのか
僕がやさしさを恐れた僕なりの理由については後で触れるとして、僕だけでなく、やさしさが怖いという人はかなりの数いるようだ。
今このnoteを読んでくれているあなたもその一人かもしれないが、試しに「優しさ 怖い」でググってみたら0.25 秒で10,200,000件もヒットした。
なんかちょっとやさしさがかわいそう。
だが、みんなの言い分もわからなくない。
「裏があるのではないか」と勘ぐってしまったり、
「自分も何か返さなければ」と重く感じてしまったり、
「自分なんかにそんな価値はないのに」と罪悪感を覚えてしまったり、
大体はこんな風に感じてしまって、やさしさが怖いと感じている人が多いようだ。
やさしさはいつ生まれるのか
ただ先程のやさしさに対する恐れを見ていると、どうも「自分に向けて与えられているもの」への恐怖のように感じる。
しかしやさしさというのは、本当にそのように与えられたり送られたりするものなのだろうか。
こんなにも恐れられているこのやさしさというものは、そもそも一体いつどこで生まれるのだろうか。
この問いに対して僕は、
やさしさとは、僕が、あなたが、誰かが、それをやさしさとして受け取ったり触れたりした時に生まれる
と答えたい。
こちらに向けられるものではなくて、こちらから取りに行った時に生まれるという事だ。
僕がこう考える理由は2つある。
1つは、やさしさを感じるタイミングを考えた時にこの考え方だと合点がいくからだ。
やさしさを感じる時、もちろん誰かにやさしくしてもらった時というのはあるだろうが、自分に向けられた時以外でもやさしさを感じる時がないだろうか。
自分だけに向けられたわけではない歌にやさしさを感じたり。
人との繋がりの中だけではなく何かモノに対して、やさしさを感じたり。
そしてこれはやさしさを「感じられる」時だが、何気なく放った自分の一言が、誰かにやさしいと言ってもらえたり。
こういった事を考えると、やはりやさしさというのは発した時ではなく受け取られた時に生まれるのではないかと思う。
そしてもう1つの理由としては、受け取るものと考える事によって先程挙げたようなやさしさに対する恐怖を感じずに済むからだ。
与えられたから返さなければとか、何故自分に与えられたのかとか、そんな事は考えなくていいのだ。
あなたの基準で好きな時に好きなものをやさしさとして受け取ればいいのだ。
やさしさの受け取り方
では、どのようにやさしさを受け取っていけばいいのだろうか。
やさしさが怖いと感じている人たちにとって、自分から好きな分だけ取りに行くなんてそう簡単には出来ない発想かもしれない。
だから僕は、自分にとって受け取りやすいやさしさから受け取って、段々やさしさを受け取る事に慣れていく事をオススメする。
僕も今回人生のどん底に陥って、すぐに家族や友人のやさしさを受け取りに行く事は出来なかった。
正直に話すとそれは「哀れみ混じりのやさしさを向けられたくない」という、器の小ささに不釣り合いなプライドの大きさから生じたとても恥ずかしい理由だったのだけど、とにかくその時の僕には自分をよく知る人たちのやさしさに触れる心の余裕がなかった。
そこで僕は、まずは僕の事をそこまで知らない人たちからのやさしさを受け取る事にした。
これまた前回のnoteでも少し触れたように、こう見えて僕にはVRCというゲームで知り合った外国人の友達がたくさんいる。
顔も本名も知らない人たちだ。
バーチャルかつ現実でも外国という究極に遠い人たちからなら、小さな小さな僕の心はやさしさを受け取る事が出来た。
今までの僕や日本社会の他の人たちと比較されないという安心感もあったし、外国語で話す事で幾分か生々しい現実味からも逃れられた。
彼らはとても親身に話を聞いてくれて、言っている事は全てはわからなくてもその時僕に受け取る事が出来た最大級のやさしさに触れる事が出来た。
そうやって少しずつ心の準備をして、身近な人のやさしさを受け取れるようにした。
自分の受け取る事が出来るやさしさを見つけて、そこから徐々にその幅を広げていったのだ。
やさしさにふれて
一番初めに書いたように、やさしさというのはあたたかくてやわらかいものだ。
向き合い方さえ分かっていれば、怖がる必要なんてないものだ。
あなたの出来る受け取り方で、あなたが受け取りたい時に触れればいい。
何にやさしさを感じて触れたいと思うかはあなたの自由だ。
自分なりのやさしさへの向き合い方がわかった時、きっと世界が少しあたたかくなる。
あなたがたくさんのやさしさにふれて、あなたの人生がやさしさにあふれていく事を願っている。