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おとなのための教養小説―書評『デミアン』ヘルマン・ヘッセ
こんにちは。ちいさなへやの編集者です。今日は、ヘルマン・ヘッセの『デミアン』(新潮文庫)の書評を書こうと思います。3分以内で読めますので、どうぞ最後までお付き合いください。
個人的な話からはじまってしまい恐縮ですが、わたしは学生時代、大学・大学院と、日本の近代文学を研究していました。
そのため、明治から現代のものまで、日本の小説はそれなりに手広く読んできたつもりで、海外だと、フランスとロシアの文学も好んでいろいろと読んできました。
が、どうにも、英米(・ラテンアメリカ)やドイツの文学にはあまり手がのびず、いまでも、それらの言語圏で古典的名作とよばれる作品の多くを読まずにこの歳になっています。
ドイツを代表する作家であるヘルマン・ヘッセも、そのようにしてわたしがこれまで読まずにいた作家のひとりです。
中学校のときに国語の教科書に掲載されていた「少年の日の思い出」の記憶もあったので、文庫本の背表紙のあらすじを見て、軽い気もちから読んでみることにしました。
あらすじにはこうあります。
ラテン語学校に通う10歳の私、シンクレールは、不良少年ににらまれまいとして言った心にもない噓によって、不幸な事件を招いてしまう。私をその苦境から救ってくれた友人のデミアンは、明るく正しい父母の世界とは別の、私自身が漠然と憧れていた第二の暗い世界をより印象づけた。主人公シンクレールが明暗二つの世界を揺れ動きながら、真の自己を求めていく過程を描く著者の前期代表作。
このあらすじからわたしは、10代の中高生でも読めそうな、ちょっとした青春小説を勝手に想像していたのですが…ところがっどっこい。じつに、タフな一冊でした。
とても、いまの日本の中高生が読みとおせるようなすがすがしい小説ではありません。
物語のはじまり、語り手の「私」がラテン語学校に通い、デミアンと出会うまでのストーリーこそ安心して読み進められるものの、以降、小説はだんだんと、哲学書や啓蒙書のような硬質なよそおいをみせはじめます。
訳者である高橋健二の解説によれば、この小説は、第一次世界大戦によってそれまでの幸福な世界が根底からくつがえされ、内的にも外的にも平和とよりどころを失ってしまったヘッセが、それを再建するための第一歩として「転身」をしてみせた作品だそうです。
すなわち、戦争とういう外的な変化が作家に強いた自己への沈潜が、この『デミアン』という作品の世界を、より内省的でより観念的にしている要因だと考えらえるわけです。
しかし、書かれている内容にしばしば置いてけぼりをくらったものの、読み進めるのが苦痛だったかというと、それほどの難儀はあまり感じませんでした。
それはヘッセの文体が、明晰な論理につらぬかれており、すくなくとも一文の単位ではスムーズに読むことができるからです。
青少年が主人公に設定され、その内的な成長過程を追いかける物語を、一般に「ビルドゥングスロマン(教養小説)」とよびます。
日本の近代小説では、夏目漱石の『三四郎』がその典型とされていますが、ヘッセの『デミアン』もその代表に挙げることができます。
ただ、こういう教養小説のあじわいがわかるためには、じつは、すでにその年代から遠くへだたり、若かりしころを回顧的に追想する年代になっている必要があるのかもしれません。
じっさい、『デミアン』の語り手は、幼年時代から遠くへだたった、老成した人物に設定されているように思われます。
その点、『デミアン』はむしろ、30代以降のおとなたちが読むのにふさわしい教養小説なのかもしれません。
今度は、『車輪の下』あたりを読んでみたいと思います(気が向いたら)。
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