コンテンツとフォーマットのずれが生む意味~『コンテクストデザイン』の感想
このnoteは『コンテクストデザイン』という本と、その一連の出版活動に対する正直な感想と考察です。
はじめに断っておくけれど、この本の著者である渡邉康太郎さんから「アウトロー」と称されるほど僕はちょっと変な考え方をするらしいので、もしかするとうがった見方をしているかもしれないことを先に断っておきます。
1. コンテクストデザインについて
コンテクストデザインとは、ユーザー自身が新しい使い方を発見したり、新しい意味を見出したり、そのプロダクトを介して人との新しい関係を紡いでいけるような、個々人の「ものがたり」を誘発することを主眼においたデザインである、と理解している。機能や用途があらかじめ提示され基本的にはそれが変更されない従来のデザインとは異なる。
例えば「Message Soap, in time」は手紙を中にこめられる石鹸である。瞬間的なやりとりができるLINEやMessengerとの対比としての時間差を活用し、石鹸に込められた手紙のやりとりと、石鹸がすり減って手紙がでてくるまでの前後の時間の不思議な質をデザインすることで、送り手と受け手が深い関係性を伴うストーリーを広げていけることを可能にした。
また、本が販売された「森岡書店」は”一冊、一室。”を掲げ、1週間の間に1種類の本しか販売しない。「目的の本と出会えない」ことは現代の社会でさまざまに起こる。一方で、そうすることで存在すら知らなかったほかの本と出会うチャンスが生まれているともいえる。(僕の解釈では)森岡書店は「全世界のほとんどの本を出会えない」という状況を逆手にとって「特別な一冊との一期一会」という出会いを演出することで、本を購入者にとって特別な存在へと昇華させている。
1.1 「おやごっち」からみるコンテクストの時間軸
コンテクストデザインではさまざまな出会いやストーリーが生まれていくとともに多様な使い方を誘発する。
当然使い方のバリエーションや可能性は時代に応じて変わっていくし、時代の変化に伴ってさまざまな読み取りも可能になっていくのだろうと思う。
「コンテクストが時代のなかで変化する」という点で、少し面白いなと思う作品をみたことがある。「おやごっち」というアート作品だ。
「おやごっち」は親がたまごっちのようなインターフェイスを通して子供に勉強するように伝えたり家事をお願いしたりできるデバイスだ。要するに2人の新たなコミュニケーションツールなのである。
親はこういうデバイス(この写真は通常のたまごっち)で、子供に指示を出し、子供も親に反応する。
そこで僕が面白いなと思ったのは、ピクセル感の目立つ粗い解像度のインターフェースが、親子の間にほどよい距離感を生んでいることである。
しばしば近年のスマートフォンは高解像度化しているから、例えばLINE電話越しに勉強するよう催促されたりすると、まるで目の前で言われているかのような迫力があって、おそらく子供にとってはイラっとする。
しかしたまごっちのような極めて抽象的な表現をあいだにはさむことで、そうした親の存在感が薄れて、両者の間にほどよい距離感が生まれるとともに、メールともLINEとも異なる不思議な親近感をすら2人の関係にもたらしているようにみえたのである。
画像や動画の解像度を下げることは必ずしも悪ではなく、時にほどよいコミュニケーションの距離感をチューニングするためにも利用できる、という発見。しかしそもそも、低解像度な表現がこうしたコミュニケーションを可能にしうると気が付くのは、高解像度への偏重という文脈が現実世界に立ち上がったからだ。
物事を絶対評価することは簡単ではなく、人は多くの現象をほかの現象との対比のなかでとらえている。あらゆる現象の特性を明快にするのは現象自身の性質というよりもその周辺に生まれるコンテクストの方であり、そうした付け合わせがなければ人は対象の性質の意味を認識することすら容易ではない。
だから、コンテクストデザインは時代の中でいかような解釈をも発生させうる。そしてコンテクストデザインは、プロダクト的な短い時間軸に対してランドスケープ的な悠久の時間軸も内包している。
僕たちは20年後には、脳波の一部を7Gの通信で共有してコミュニケーションしているかもしれない。そのとき「Message Soap, in time」は、時間差というよりもむしろ、「物質として自分の気持ちを文字に起こす」ということにこそ不思議さと価値が生まれているかもしれないのだ。
1.2 『コンテクストデザイン』の最初の違和感
はじめにコンテクストデザインの本を書くと聞いたとき、実のところ僕は妙な気持になった。そしてタイトルが『コンテクストデザイン』であると知ったとき、その違和感はたしかなものになった。
『コンテクストデザイン』はまるで教科書のように存在し、「渡邉康太郎の読み取りこそが正しいものである」とでもいわんばかりの、しっかりした装丁で製作されている。本で語られているさまざまな作品や事例の読み取りはあくまで渡邉康太郎の解釈に過ぎないというのに、それがいかにも「正しい」かのように提示されつづければ、むしろほかの人々は自由な解釈や読み取りをしづらくなっていくのではないか、とすら思った。
これは建築の世界でも、あるいは文学の世界でもあることだと思うけれど、設計や作品の一般的な理解というのは何重にも上塗りされ、少しずつ固められていく。それは人々に浸透すればするほど自己増強化して、正しさに正しさを塗り重ねていく。そして自由な解釈というのはどんどんできなくなってしまう。だから新しい解釈を示す場合には既存の解釈を理解し、それを絶妙にのりこえつつ自らの主張を提示する、というけっこう骨のいるプロセスが必要になる。
簡単にいうと将来、誰かがコンテクストデザインに興味をもって、その作品自体を解釈しようとして、「僕はこのコンテクストデザイン作品はこういう解釈もできると思うんだよね」といったときに、「いや違う、渡邉康太郎はこう言っている」と言ってくる面倒な”勉強家”がでてくるのではないかと思ったのである。僕はこういう手合いがかなり嫌いで、こういう人がたくさんいる建築領域の議論にも基本的にかかわりたくないし、たいていはその領域全部を嫌いになってしまう。
だから本というメディアの有効期限を考えたとき、『コンテクストデザイン』という本があることで、あと数十年もすればコンテクストデザインは固定的な解釈に縛られた様態に収束していくのではないかと少し思えてしまった。本は人の自由な解釈を次第に制限し、閉鎖的な解釈で領域を満たしていくことを促すのではないか、とすら思ったのである。
僕たちは、「Message Soap, in time」を「脳波の時代に、物質に文字を起こす不思議さが生むコミュニケーションに注目した作品」と読むことを永遠に禁じられている気がしたのだ。新たな文脈にのっとった理解に基づく使い手の「ものがたり」を許すものの、コンテクストデザインという取り組み自体は広がらないのではないか。
それならばいっそ何も語らず、妄想の余白を残してくれた方がいい。そして僕が未来人なら、イーロン・マスクの会社の記事をもとに「渡邉康太郎は脳波コミュニケーションの時代を見越してこの作品を作ったに違いないのだ」といわせてほしい。
そしてnoteの記事も、文字通りサーバーごと葬ってくれればいい。
1.3 著者のうわさばなし
けれど僕のそんな違和感は、最初の2ページですぐに葬りさられることになる。
この本は「うわさ」というノーマン・ロックウェルの作品を引用して説明するところから始まる。
「うわさ」では、ある一人がひとつのうわさを誰かに話し、その人はまた別のだれかに伝え、そのだれかはまた別のだれかに伝える、というプロセスを何度か繰り返した後で、最初の一人(左上のおばさん)がまわりまわって噂話の当事者から同じうわさをききつつ怒られている場面がとらえられている。
そして僕は、このおばさんが、あまりのストーリーの変わりように「あれまあそんな話に変わってるの」と面白がって内心大爆笑しているのではないかと思うのだ(とぼけた表情の中に、含んだ笑いがみえませんか)。
『コンテクストデザイン』の序文ではこの作品を提示しつつ、こうしたうわさの伝搬のプロセスのなかで変化していくストーリーの性質が考察されている。
しかし僕は少し違った意味で、この作品が序文で提示されたことを了解している。要するに、この最初のおばさんは渡邉康太郎自身なのである。
「僕が一人目になってみるから、みんなはそれをどんどん誰かに話して、最後に僕を大笑いさせてくれたまえ」といっているのだ。ストーリーが異なっていくことをこそ求めている(もちろん怒られたいわけではないけれど)。
しかし本の序文で著者自身がそうした態度を明確に打ち出すことで、この本によって渡邉康太郎は「正しいことを伝える」というよりもむしろ、うわさの一人目になってみたにすぎないのだ、と気が付くのである。
2. コンテンツとフォーマットのずれが発生させる新たな意味
そうした著者の態度を認識すると、この本の妙に落ち着いた佇まいや『コンテクストデザイン』といういかにも教科書的なタイトル、品のある書体や紙の色が、この本に不思議なコントラストを発生させているように思えてくる。コンテンツとフォーマットがずれているのだ。
どういうことか。
少し遠回りな話になるけれど、『限りなく透明に近いブルー』という小説がある。その描写では、殺人やドラッグ、暴力や乱交といった非日常であり許されないことが、きわめて当たり前の、平坦な語り口で語られる。「ご飯食べた、人を殺した、少し散歩した」みたいな不自然なテンションなのだ。
暴力や乱れた性を、迫力をもって書くのではなく、むしろ当たり前のようにフラットに書いてしまうことによって、主人公が思春期として普通の悩みを抱えたり普通に食事していることが不自然に映ってくる。コンテンツ(=書く内容)と、フォーマット(=書き方)がずれているということ自体が、我々に対してメッセージを発する。本を読みながら、僕たちは自分たちの「当たり前」について不安になりつつ、そうした「当たり前」が主人公を大きく変貌させていく様から目が離せなくなる。
『コンテクストデザイン』では、誰でも自分なりに読み解いていいはずの内容である「うわさ」(=コンテンツ)がいかにも教科書のような仕上がり(=フォーマット)で語られている。
フォーマットとコンテンツのずれ自体が、
「”あなたなりに読んでください、自由に参画してください”って言ってるあんたが、そんな正しそうな顔して解釈提示してくんのかい」
というツッコミを待っている気がするのである。
荘厳な装丁をまとった、個人的な「うわさ」話。
そうしたずれを通して僕たちはむしろ、教科書然として語られている社会のほかのさまざまな文脈や事象や定義にも、もっと自分たちなりの読み方をする余白があるのではないか、と逆説的に気づかされてしまう。
本というフォーマットとコンテンツのズレを読者に提示することでツッコミを促すというプロセスそのものがコンテクストデザインであるのだ、と思うのである。
そして一意の強い解釈がどんどん自己増強してほかの解釈を縛っていくという呪縛を前もってほどいている。コンテクストデザインというフレームを受け取っているだけの無思考的な人に対して圧力となる本ですらあるように思う。
僕は結果としてその不思議な対比が、この本のとても大きな魅力として立ち上がっているような気がするのだ。
3.最後に
最後に。
『コンテクストデザイン』には特装版があって、特装版は4種類のカラーバリエーションがあります。もしも僕が渡邉さんだったら、次なる展開として、『コンテクストデザイン』を4通り書いてみたい。事例の読み取り方も文体もすべて異なるような4種類。同じ章立ての、4通りの全く異なる教科書。
学生の頃、先生のテキストが学生のテキストとバージョンが違っていて、ページ数や言葉や掲載されている作品が異なることが何度かありました。いかにも同じ教科書なのに、中身が違っていて、テキストって別に正しいものでもないんだなとふと気づかされる瞬間が、僕はとても大好きだったからです。
おわり。
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