【文学紹介】(続き)アサガオと暁の空の色 秦観 牽牛花
1:前回の続き
前記事 【文学紹介】アサガオと暁の空の色 秦観 牽牛花からの続きになります。
蘇軾も高く評価した文学者、秦観の作品を見ていきましょう。
2:牽牛花
【原文】
銀漢初移漏欲残,步虚人倚玉欄干。
仙衣染得天边碧,乞与人間向暁看。
【書き下し】
銀漢初めて移り、漏は残(ざん)せんと欲し、
歩虚の人は倚(よ)る、玉欄干。
仙衣染め得たり染め得たり天辺の碧、
人間(じんかん)に乞与して暁に向(お)いて看しむ。
【現代語訳】
天の川が傾きだし、漏刻が尽きようとする時分
仙人は玉でできた欄(おばしま)に身を預ける。
明け方の地平線の空に染まった衣を纏い
暁方、人間界にその姿を見せてくれている
3:作品解説
今回の作品の形式は七言絶句。
残(ザン)、干(カン)、看(カン)で押韻しています。
【1句目】
はじまりの銀漢は天の川のこと。「銀の河(=漢)」です。
「初」は「〜したばかり」の意味。今回は天の川が天上で移動し始めた、つまり西に向かって傾き始めたという意味になります。
「漏」は漏刻(水時計)で「残」は「そこなう」の意味、水時計が尽きようとしてるという意味になります。
天の川が西に傾き、夜の時刻を測る水時計が尽きかけている。夜が終わりに近づいてきていることがわかります。
【2句目】
「歩虚の人」はなかなか見慣れない言葉ですが、「虚(=空中)を歩く人」という意味で仙人を表します。
直訳すれば仙人が欄干にもたれているという意味になりますが、これはアサガオの花の描写です。
アサガオの花が欄干に咲いている様子を仙人に例えています。
【3句目】
なぜアサガオの花が仙人なのか?それがわかるのがここからです。
アサガオの花の青色を明け方の空の色に例えて表現しています。
そして空の色に染まった衣を身につけているが故に、アサガオを仙人に例えているのです。
暁の空とアサガオの青が重なるとともに、明け方の静けさ、仙人という神秘的な雰囲気が混じり合って、幻想的な情景が思い浮かびます。
【4句目】
そして最後。
乞与も見慣れない言葉ですが、「与える」くらいの意味合いです。
人間(じんかん)は人間界のこと。
仙人がその姿を暁方にだけ見せてくれている、という意味です。
仙人は仙界の存在なので人間界にわざわざ長居することはありません。
ここもアサガオの花が朝にだけしか咲かないという儚さをうまく表現していると思います。
4:最後に
この詩で僕が好きなのは、やはりアサガオのブルーの美しさと暁という時間帯の限定感・儚さ・神秘性が表現されている点です。
色を重ね合わせることもですが、「天辺=天の果て、地平線の彼方」という奥に吸い込まれていくような青の神秘性、暁の静けさと、この瞬間だけに見ることのできる美しさという限定性、儚さが相まって、不思議な幻想感を覚えます。
花を人に例えて美しさを詠む詩は秦観以外にも多く見られますが、古典らしさすら良い意味で感じない、漢詩だけれど漢詩な感じがしないという意味で非常に印象に残っている詩です。
また今回は、「詩」っぽくないという部分に着目して秦観を紹介しましたが、当然今回紹介した内容以外にも特徴はたくさん存在します。
例えば、秦観に関する詩の評価でよく目にするのが「清麗」「清雅」「清空」「清凄」など「清」の字を用いた言葉による評価です。
詩の風格も人生の各段階に応じて当然異なってくるのですが、一貫して共通しているのは「清」の字を用いた言葉による評価の多さだと思います。
これは完全に個人的な見解ですが、秦観の詩には水や光を巧みに表現した描写が多い印象を受けており、そのような傾向が「清」の評価と関連しているのかもしれません。まだまだ研究されるべき文学者だと思います。
秦観はまだまだ翻訳や書籍もほとんど出ていない(漢詩選などにも1、2首あるか)という、日本ではまだまだマイナー詩人ですが、個人的にはとても好きな文学者なので、ぜひ機会があれば作品に触れてみてください。
それでは今回はこの辺で!