指揮こそ、わが人生 井上道義/新日本フィルの「レニングラード」
すみだトリフォニーホールで、新日本フィルのトリフォニーホール・シリーズ第659回定期演奏会を聴いた。
ショスタコーヴィチ:交響曲第7番 ハ長調 op. 60 「レニングラード」
指揮:井上道義
年内で引退を宣言している井上道義。今年聴くのはN響との「バビ・ヤール」、千葉県少年少女オーケストラとの「運命」に続いて3回目(昨年の小曽根真との「ジュノム」を体調不良で聴き逃したのが痛恨😭)。
私にとっては今日がミッキー(井上道義)聴き納めである。
私は井上道義の熱心なファンではなかった。クラシックを聴き始めのころ、井上さんは京都市交響楽団の常任指揮者で、独創的なプログラミングが話題になっていた。それで興味を持ち、新日本フィルで「運命」とベルク、シェーンベルクの管弦楽曲(オーチャードホール)、都響とのベートーヴェン第九(新宿文化センター)を聴きに行ったのだが、どちらも印象がよくなかった。
いまの自分なら、新宿文化センターでの公演は定期演奏会のようなガチモードとは違うので、それだけで判断する方が悪いとわかる。
しかし井上道義との縁は遠ざかり、今年2月のN響定期でようやく再会したのだった(本来なら前述のように去年の「ジュノム」で再会のはずだった)。
さて、個人的なエピソードはこれくらいにして、今日は凄かった。歴史的な一日を体験したと感じた。
私は24年前のヴァントの最後の来日公演のブル9を聴けたことをいまだに自慢しているが(すんません😛)、今日の「レニングラード」を聴けたことも一生ものの体験だ。ずっと語り草になるだろう演奏会だった。
バッティストーニの「夜の歌」が年に何度も体験できないコンサートなら、こちらは一生に何度も体験できない類のコンサート。
どちらもスーパーウルトラ感動したので、比較すること自体野暮な話だが。来週月火でこの2人を聴く人には栄養ドリンクをおすすめする😁
さて、今日はPブロックにバンダがいて、上手にトロンボーンとトランペット(3人ずつ)、下手にホルン4人がいた。金管群を別動体にしたことで、音が冴えわたり、迫力が増していたと思う。
第1楽章冒頭の勇ましい主題に強引さは皆無。力強い推進力だけが伝わってくる。引きずるような重さもない。
舞台上でダイナミックに身体を動かす指揮者を見ていて、改めてこの指揮者は指揮法を超えたところにいる、指揮法の奥義を会得していると感じた。
広上淳一が東京音大指揮科のレッスンで、羞恥心をなくすよう学生にいろんな無茶振りをしていた。「指揮者は欲しい音のためだったら裸にでもなる」と言ったのは広上さんだったか。
指揮者は指揮台の上で何をしてもいいから自分が欲しい音をオーケストラから引き出さなくてはならない。そのとき羞恥心は邪魔な存在でしかない。
井上さんは「レニングラード」のラストでトロンボーンとトランペットに「もっと高らかに吹け!」とばかりにラッパを吹く仕草をしてみせた。
指揮台の上で指揮者は丸裸のようなものだと今日つくづく感じた。「指揮台は死刑台」と言った指揮者もたしかいた。そこに立てば、すべてが曝け出される。
デリケートなニュアンスに耳をすませようとすると、インテンポで通奏低音を奏でる近くの鼻息男には閉口したが……😓
新日本フィルもまた、私にとって縁遠いオーケストラだった。
本拠地のすみだトリフォニーホールが家から遠いのもあるし、そもそもポストを持っている佐渡・久石の両人が好きになれないのだから無理もない🥲
オーケストラの特色もよくわからないままだったが、今日の演奏を聴いて好きになった。
コンマスの崔文洙さん主体で奏でるヴァイオリン群の音色がどこまでも透徹だった。
この音色はどこかで聴いたことがあるぞと思ったら、闘病中の小澤征爾が病を押してサイトウ・キネン・オーケストラを振ったチャイコフスキーの弦楽セレナード(第1楽章のみ)だった。
井上さんは在京オーケストラの中では新日本フィルとの関係が一番深い。1983~1988年に音楽監督にもなっている(このころはショスタコーヴィチよりマーラーのスペシャリストだったのでは)。
コンマスの崔さんの表情や音色からはこれが最後の別れになるという痛切な悲哀が伝わってきた。
一緒にステージを重ねたたくさんの思い出があるだろうし、そうした目に見えない絆が透徹した響きにつながっているのだと私は感じた。
第3楽章アダージョのヴァイオリン群の音色はまさにそうだった。
反対に、後半に主題を受け持つヴィオラの響きには人間的な温かみがあった。
これを聴いて思ったのは、昨日の「ジュノム」もそうだが、「エロイカ」の葬送行進曲にしても、最近の演奏は速すぎるのだ。
ハムレットの台詞をNHK「漫画家イエナガの複雑社会を超定義」の町田啓太が喋ってるようなもので、まったく感情が追いつかない。
井上道義の「レニングラード」は一つ一つのフレーズが意味を持って語りかけてきた。
第4楽章も半ばになると、ついにこの名指揮者ともお別れかと寂しさが募ってきた。
「まだまだ振れる」と誰もが思っているはず。橋幸夫みたいに引退撤回しても構わないと思うし、「クラシック界の道義的責任は引退撤回」というアホなネタも以前考えたが、本人が選んだ勇退の美学を笑いにするのはどうも違う気がする。
とはいえ、指揮者にとって指揮とは、仕事でも趣味でもなく生きることそのものではないのか?
来年から指揮をやめます!と言って辞めてしまえるものなのだろうか。
今日のステージを見ていて、私は井上道義の人生そのものを見ている気になった。この人はかつてクーベリックの代役でシカゴ交響楽団も振ったことがある。ショスタコーヴィチの交響曲全集を出したことのある唯一の日本人指揮者。彼が見てきたさまざまな風景が燕尾服の背中を通して見えるようだった。
終演後の旺盛なサービス精神は相変わらずで、スコアに挟んであったショスタコーヴィチの写真を顔に寄せて2ショットを作ったり(絶好のシャッターチャンスだった。木之下晃なら絶対捉えていたはず笑)、カメラを撮る仕草をして「どんどん撮って?」と言わんばかりの満面の笑み。
今日はカメラが入っていた。まだオーケストラが座っている状態で客電がつき、スタオベを起こさせたいスタッフの意図を感じてしまったが、コバケンみたいに指揮者自らお願いして起こるスタオベよりははるかにいい😅
オーケストラがはけたあとも下手に聴衆が集まり、熱心に拍手を贈り続ける。
最後、井上さんはおじさんと二人と出てきて、一緒に拍手に応えていたが、どなただったのだろう。
今月で退団する方かと思ったが、違うのかな🤔
当初は行き慣れたサントリーホールで聴くことを考えていたが日程が合わず、こちらにした。すみだトリフォニーホールは新日本フィルの本拠地である。勝手知ったるホールだからこそ、新日本フィルの力が最大限引き出されたのかもしれない。
指揮法を究めた指揮者、井上道義。私はその思い出を、朝比奈隆の思い出のように語り継いでゆきたい。