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小澤征爾の思い出 (宇野功芳による伝説の「エロイカ」評付き)

小澤征爾の思い出

小澤征爾が亡くなった。

最初に書いておくが、私は小澤征爾の熱心なファンではない。実演は3回接しているが、心の底から感動した体験はない。
だから、朝比奈隆や宇野功芳を追悼する言葉とは必然的に変わってくるだろうと思う。

私がクラシックを本格的に聴き始める前、知っている指揮者といえばカラヤン、小澤征爾、佐渡裕くらいだった(佐渡さんはメディアによく出て顔が売れていた)。

小澤征爾は野球のイチローや将棋の羽生善治みたいに、クラシックに詳しくない人でも知っている有名人だった。
「世界のオザワ」である以上に、市井の人にまで知られていたことの方が凄かったかもしれない。

とはいえクラシックコンサートに通い出してからも、真っ先に聴きに行きたい存在ではなかった。
宇野功芳が貶していたせいもあるかもしれない。吉田秀和に傾倒してたらもっと小澤さんを聴きに行ってたかもしれないね😅

最初に実演に接したのはこちら。

新日本フィルハーモニー交響楽団

2000年2月12日 すみだトリフォニーホール
日ロの友好と協力のためのコンサート

指揮:小澤征爾
チェロ:ムスティスラフ・ロストロポーヴィチ
ヴィオラ:白尾偕子
管弦楽:新日本フィルハーモニー交響楽団

両国国歌演奏
ドヴォルザーク:チェロ協奏曲
R・シュトラウス:交響詩「ドン・キホーテ」
〈世界平和への祈りとして〉
バッハ:無伴奏チェロ組曲第2番サラバンド

当時の鑑賞日記を読むと、評価は最低の「C」で(SS〜Cの5段階評価)、「かなり退屈した。小澤の指揮は感情の起伏に乏しく、抉りに不足を感じる。ムード的に聴こえる。ロストロポーヴィチのチェロも精彩を欠いた」とある。

当時、私は19歳。宇野風味なレビューなのはご愛嬌だが、出会いからこんな感じだったので積極的に聴こうと思わなかったのも無理はない。

この日は橋本龍太郎元首相が来ていた。当時は小渕内閣だが、エリツィンと「リュウ」「ボリス」と呼び合う仲だった橋本龍太郎は日ロ友好に一定の功績を果たしたのだろう。

ロストロポーヴィチは伝説のチェリストとはいえ、当時72歳。一晩でドヴォルザークのチェロコンとドン・キホーテとは体力の衰えを知らぬプログラムだ。
肉体的な衰えは感じなかったが、曲にそこまで思い入れがなかったのもあり、感動には及ばなかった。

サイトウ・キネン・オーケストラ

2回目の実演はサイトウ・キネン・オーケストラ。
こちらはライヴCDにもなっている。

2001年1月2日 東京文化会館

指揮:小澤征爾
管弦楽:サイトウ・キネン・オーケストラ

マーラー:交響曲第9番

なんと!  1月2日の公演だった。この3、4日前には朝比奈隆と大阪フィルの最後の第九を二晩続けて聴いていた。

マーラーは当時の鑑賞日記によると「しなやかな弦によるマーラー。オケの能力は素晴らしく高いと思った」とある。評価は「S」である。

私は翌年末(2002年11月29日)にゲルギエフ/キーロフ歌劇場管のマラ9を聴いたのだが、小澤と芸風が真逆で驚いた。

ゲルギエフが感情の坩堝だとすると、小澤はガラス細工。
音楽の透明度、人工美が凄かった。

好みでは断然ゲルギエフだ。私はマーラーの人間臭さを好んでいるからである。
ただ、小澤の表現もある種の極致だった。同じ曲とは思えないほどだった。

水戸室内管弦楽団

3回目(最後)は水戸室内管である。小澤と縁のある3つのオーケストラで聴き比べができたのは幸せだった。

2012年1月22日 サントリーホール

指揮:小澤征爾
チェロ:宮田大
管弦楽:水戸室内管弦楽団
*モーツァルトは指揮者なし

モーツァルト:ディベルティメントK.136
モーツァルト:交響曲第35番「ハフナー」
ハイドン:チェロ協奏曲第1番

水戸公演では全曲振ったようだが、この時期にはすでに体力がかなり衰えており、ハイドンだけ振れる状態だった。

ハイドンのチェロ協奏曲第1番はハイドンを好きになったきっかけでもある大好きな曲(デュ・プレ盤が最高)。

小澤のハイドンは清冽な湧き水のような、あるいは蒸留水のような音楽だった。色でいえば、淡い水色。

その潔癖なまでの純粋志向は晩年の小澤の音楽性だったのかもしれない。

天皇皇后両陛下(現在の上皇皇太后)も臨席していた賑々しい演奏会だったが、私の感動はそこまでではなかった。

つまり、小澤の実演には3回接する機会があったものの、そこまで強烈な感動は得られなかったのである。

小澤征爾のCDと本

小澤のCDではこちらが思い出深い。

以前、mixiでコンサートやCDの感想を書いていたのだが、このモーツァルトがどうも好きになれなかった。

「世界一美しいモーツァルトがここにある」などと帯で謳っているから、なおさらそう思ったのかもしれない。

実演で聴いたハイドンに通じる淡い水色のような響きは、ノリントンが提唱していた“ピュア・トーン”にも通じるものだったかもしれない。
しかし、音楽のふくよかさや豊かさにはつながっていない印象だった。

こちらの対談本はそれなりに面白く読んだ(とはいえ記憶には大して残っておらず。ルドルフ・ゼルキンとのベートーヴェンについて語っていたような気が……)

村上春樹は『意味がなければスイングはない』という音楽エッセイも面白かった(レコードの紹介本は自慢臭が鼻につくのでやめておいた方がいい)。

ウィーン国立歌劇場の音楽監督、というクラシック楽壇の頂点にまで登りつめた小澤征爾。
日本人指揮者とは思えない活躍ぶりだった。

晩年は病のため大曲を振ることが困難になり、ベートーヴェンやモーツァルトなど古典派の中規模な曲で究極の音楽を追求していたように見える。

ただし、彼やブロムシュテットのベートーヴェンは私には訴えかけてくるものが薄く感じていた。

「楽譜に忠実に」「作曲家がこう書いてるでしょ」ばかりをリハーサルで連発している光景が目に浮かんだ。

小澤がどんなベートーヴェンを描きたいのかがさっぱりわからなかった。

その中でも「運命」に関しては例外的に、小宇宙とも言うべき爆発力を感じた。

ミリマリストのごとく音楽が内へ内へ向かい凝縮を強める音楽性は、病を得たがゆえだったかもしれない。
健康なままでいたら、小澤の音楽性は変わっていたかもしれない。

最後に、どさくさに紛れて(?)、宇野功芳による伝説の「エロイカ」評を引用する。

宇野功芳による伝説の「エロイカ」評

まるでスーパー・ドライのような《エロイカ》。いや、スーパー・ドライは少しは味があるので、この無味無臭の演奏は蒸留水のような、といったほうが当たっているかもしれない。しかし、これは必ずしも悪評ではない。小澤がかつて同じオーケストラを振って録音したブラームスの四番、あのドイツ風ともブラームス風とも縁を切った純白の音楽を極限まで突きつめてゆくと、今回の《エロイカ》に到達するからである。そのこだわり方は並大抵のものではない。これは小澤征爾という指揮者がついにたどり着いた窮極のベートーヴェンの世界なのである。
彼はここで少しでも意味のある音を出したり、感動させようという表情をつけないようにつとめている。ましてや汗くさい、ドイツくさい、人間くさいドラマなどは徹底的に拒否、なんとも明るく爽やかな、ときには室内楽的とも言える見通しのよい音を一貫させてゆく。先般来日のラトルが古楽器オーケストラからの影響を受けて必死にたたかっていた姿もここには皆無。
ぼくなどにはいちばん遠いベートーヴェンに思われるが、需要がなければこのような演奏は決して生まれない。スーパー・ドライの好きな人にビール職人やヱビスを飲ませると、ドロドロしてまずいと言うそうだが、この《エロイカ》を好む人もきっと多いのだろう。そうだとすると、日本の食文化もクラシック音楽の未来も暗いと思わざるを得ないのだが……。

『レコード芸術』宇野功芳の月評

“言いたい芳題”が許された時代でした😅

とはいえ、「窮極のベートーヴェン」には驚かされたね(究極、じゃないから嫌味かと思ったら、どっちの表記でもいいのね😅)。

天国で小澤さんと喧嘩してないといいけどね。

朝比奈隆が仲裁してるかもしれないね😅

それにしても、時代を彩ったスターたちが文字通り天国の星となっていくのは切ないものがある。

美輪明宏、仲代達矢、山﨑努、江守徹……私の“推し”には高齢の人が多い。

年を取るということは、好きな人との別れも多く経験することなのである。

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