私が音楽に望むものと対極のもの マケラ/都響の「悲劇的」
冒頭30秒で帰りたいと思った。
誇張ではない。
Pブロックで聴いていて、低弦が豪快に鳴り始めたが、マーラーの肝とも言えるその冒頭主題が「スター・ウォーズ」のテーマのようにキラキラして聴こえたからだ。
おまけにマケラは終始ニコニコ。
何が楽しいの?と文句を言いたくなるが、理由がわかった。
彼がなぜスコアをめくりながら指揮するか。
マケラにとってオーケストラの指揮はパソコンゲームなのである。
音ゲーなのだ!😅
オーケストラを指揮して自分の思い通りの音が出たらクリアー。
何連コンボとかそんな感じで、バシバシ決まったと感じてるのか楽しくてたまらない表情。
バーンスタインが今日の演奏を聴いたら何と言うだろう?
マケラが楽しそうにオケをドライブしてるのを見て、だんだん嫌気がさしてきた。
途中で帰りたくなったが「悲劇的」は90分休憩なし。心動かされる箇所は最後まで一つもなかった。
演奏家が楽しそうな顔してたらいけないの?と言う人もいるだろう。
内田光子みたいな顔で指揮しないといけないの?と😅
例えば「ハムレット」を演じる俳優なら、役に応じた声色や身体の動き、顔の表情をするはずだ。
マケラは今回初めて「悲劇的」を振ったらしいが、ハムレットを初めて演じられる喜びが全身から漲っていては芝居にならない。
今日のマーラーはどこを切ってもマーラーの肉声が感じられなかった。
長身のイケメンだが、葛藤や挫折、失敗や恥の少ない人生を生きてきたのか?と余計な勘ぐりをしたくなる。
芸術表現をする上でそれらはあればあるだけいい。負の遺産をすべてプラスに転化できるのが芸術表現だ。
カラヤンやマゼールのように耳はいいのだと思う。
オケはノーミスに聴こえたが、リットンとのバーンスタイン「セレナード」のときの都響の方がはるかに私は好きだ。
マケラの「悲劇的」は作曲家自身から切り離され、歴史も文化も知らないイマドキの若者がパソコンゲームしているかのようだった。
ゲームをプレイするような指揮なのに、曲が終わると指揮棒をなかなか下ろさず、しばらく静寂が発生したのも白々しいというか失笑した😅
さっきまで笑いながら指揮してたやん!🤣
マケラが「レニングラード」と「悲劇的」という大曲を選んだ理由がうっすらわかった。
どちらも攻略しがいのある複雑で長大で難解なゲーム。
マケラよりオケの鳴らし方が下手な指揮者はいっぱいいる。
でも彼の音楽はびっくりするほど「心」がない。
空っぽ、空洞なのだ。
今までも表面的に感じる演奏には多々出会ってきたが、マケラはテクニックのレベルが超越してるので私は初めて実感できた。
宇野功芳がカラヤンのベートーヴェンを酷評していた理由はこれか!
と。
テクニックが冴えわたればわたるほど、虚しさは増大する。
カラヤン的なるものを頭では理解していたけれど、実演で聴くとこんな感じなのかと知った。
今までのコンサート人生でワースト3、いや、ワースト1と言ってもいいコンサート。
なぜワースト1か?
いくら技術がずば抜けていても、伝えたいもの表現したいものが伝わってこない芸術表現に意味はないと痛感させられたから。
マケラの音楽はそういう意味において、徹底していた。中途半端ではなかった。
そして、私は思った。
私が音楽に望むものの対極がここにある、と。
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