大倉集古館の春 ~新春を寿ぎ、春を待つ~:2 /大倉集古館
(承前)
1階の展示は「新春を寿ぎ」に徹した内容となっており、2階の展示室で「春を待つ」の要素が加わった。梅や桜といったモチーフの登場である。
狩野常信の三幅対《梅鶯図》。
それぞれの梅樹は霞で遮蔽されており、全体像はうかがえない。また、画面上部の3分の1ほどが余白になっている。
後者は着賛のためであろうが、こういった、あえて「見せない」見せ方には、かすかに漂う梅の香りとの相性のよさを感じさせる。
こうして表具をカットした状態で観ると、3幅が連続した画面で、同じひとつの老木を描いていることに気づきやすい。
ところが、金襴の表具がついた状態では、各図の独立性がより強められ、3図の連続性には意外に気づきにくかった。
中幅に比べると、左右の幅は少し寂しい。そのぶんウグイスが描き加えられてバランスがとられ、単体での鑑賞も成り立ちそうだ。
なかなか心にくい対幅である。
大倉喜八郎は横山大観や川合玉堂など、院展系の日本画家たちのパトロンでもあった。古美術のみならず、近代日本画も大倉コレクションの核となっている。
小林古径《木菟図》(昭和4年)。
この絵を観て最初に浮かんだ言葉は 「暗香」だった。
字面にはないけれど、闇夜に漂う梅の花の香りを指す言葉だ。「夜」と「梅」のイメージを結びつけた詩歌や絵画、工芸作品は、それくらい数多く生み出されてきた。
この絵で梅枝に留まるのは、ミミズク。古径が描く動物には、このミミズクくんのように、いかにも賢そうな、悟ったような面持ちをみせるものが多い。
ミミズクはフクロウによく似た別の鳥だが、ローマ神話に登場する知恵の女神・ミネルヴァが従えるフクロウを想起させ、さらに理知的なものと映る。
静謐な、早春の闇夜の一場面である。
夜の梅ときて、お次は夜桜。
横山大観《夜桜》(昭和4年)である。
タイトルのとおりに夜桜が描かれており、記憶のなかでも桜ばかりが目立っていたのだが……久々に拝見して、思った。
「松の木、こんなに多かったのか」と。
うねうねと、松の木がいくらしゃしゃり出てこようとも、咲き誇る桜花を前にしては引き立て役。いやむしろ、脇役がいいからこそ主演が引き立つ。そうして、夜桜が強く印象づけられているのだろう。
桜よりも松のほうが手前に置かれているはずなのに、桜の花は、遠くからでも花のかたちがわかるほどに、ひときわ大きく描かれている。
この縮尺どおりであれば「お化け桜」なんて云われそうなところ、それでも違和感がないのは、満開の桜を目の当たりにしたときの実感を、この描き方がよく再現しているからではないだろうか。
大観の仕掛けは、他にもたくさんある。
煤や煙となり、闇に融けていく篝火。せっかくの桜は黒煙に侵され、落ちた花びらは身を焦がす。桜の花の諸行無常を、この篝火がより儚いものとして照らしているようだ。
よくみれば、桜のつぼみや松ぼっくりも描かれているし、やまと絵の背景を思わせる山の端の月に、夜空の群青が効いている。たらしこみによる背景は、桜の木がこれだけでなく、背後にもたくさん控えていることを暗示しているのだろう。
とかく、みどころの尽きない作品。
大観の《夜桜》を最後に観て、館を出る頃にはすっかり、来たるべき春が待ち遠しくなってしまったのだった。