雰囲気のかたち―見えないもの、形のないもの、そしてここにあるもの:2 /うらわ美術館
(承前)
「見えないもの、形のないもの、そしてここにあるもの」を描く。
このような作として真っ先に思い浮かぶのは、横山大観や菱田春草の絵であろう。本展でも、いちばんはじめに取り上げられていた。
岡倉天心の「空気を描く方法、工夫はないか」との問いかけに対する、若き日本画家たちの応答が「朦朧体(もうろうたい)」であった。
ポスターの上半分は、大観の朦朧体の作《菜の花歌意》(個人蔵)。褪色により色みの再現に難はあるけれど、大きめの図版を参考まで掲げておきたい。
地唄の「菜の葉」を絵画化したもので、もとの歌詞は菜の花を女性、蝶を思い人の男性になぞらえている。ちょうちょ、ちょうちょ、菜の葉にとまれ……
「どうも、菜の花畑を描いた純粋な風景画ではなさそうだな」ということは、この背景を知らずとも、一見してそれとなく理解できる。そこはかとない余情、「雰囲気」が、画面よりあふれだしているからであろう。形としてはない、見えないものを表現することこそが、この絵においては大事なのだ。
《菜の花歌意》の過剰とまでいえるぼかし・にじみの表現は “The 朦朧体”といえるものだが、時代が下るとしだいに抑制を利かせられるようになり、卓越した空気や温度、湿度、気象の表現へとつながっていく。その到達を示す作も、本展には出品されていた。
大観・春草の日本画の隣には、カーテンで仕切られた暗室が。中谷芙二子によるインスタレーション「霧の彫刻」の映像を流すスペースである。
立川の昭和記念公園、奈良・明日香村の石舞台古墳での実演の光景が、スツールを挟んで向かい合わせで投影されている。
霧の発生をコントロールし、人工的に自然現象をつくりだす中谷。霧という不定形のものを操って、その場所に新たな局面を切り拓き、意味を付加する。これもまた「彫刻」であり、つくられた「雰囲気のかたち」である。
暗室の向こうには、近年注目されつつある戦前の「芸術写真」の作品とともに、武内鶴之助のパステル画が多数並んでいた。
武内は、日本におけるパステル画の草分けとされる洋画家。浦和在住であった関係で、出品作はすべてうらわ美術館の館蔵品であった。
いずれも空や雲、大気が主たるモチーフとなっている。山や木、建物、人物など、地上にある要素がまったく描かれない作も多く、あったとしても添景程度。ほとんど憑りつかれたように、武内は空を描いた。
武内の空の絵を観ていると、具象/抽象の境目といったものは、もはやあまり顧慮すべきことではないと思えてくる。(つづく)