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速水御舟が描き、暮らした場所へ 〜目黒さんぽ

 山種美術館へ「小林古径と速水御舟」展を観に行くとき、ついでに寄ってみたいと思っていた場所があった。
 御舟の画室・自宅の跡である。

 大正10年(1921)、京都を引き払った御舟は、呉服商・吉田弥一郎の四女・弥(いよ)と結婚し、東京・目黒の吉田家本邸に居を定めた。
 単なる「マスオさん」ではない。
 吉田家は芸術のパトロンであり、今村紫紅率いる院展の若手画家を敷地内の長屋に住まわせていた。いまでいう「アーティスト・イン・レジデンス」である。彼らは「院展目黒派」と呼ばれ、京都へ行く前の御舟もまたそのひとりだった。
 御舟と吉田家は、長きにわたり、芸術によって結びついていた間柄だったのだ。
 
 御舟の一家はやがて、吉田家の本邸に隣接する敷地に別棟を建て、暮らすようになった。
 大正14年には、同じ敷地内に複数あった家屋を会場として、御舟の第1回個展が開催されている。最高傑作《炎舞》(山種美術館  重文)が世に問われたのはこのときであった。

 茨城県近代美術館で今春あった「速水御舟展」の図録には、この第1回個展の際、関係各位に出された案内状の図版が掲載されていた。
 目黒駅からの経路と敷地内の会場の配置が、御舟その人の手によって詳しく図示されている。これならば、迷うまい。

茨城県近代美術館「速水御舟展」図録より、モノクロ転載

 もしかしたら、この地図のとおりに行けば、わたしにもたどり着けるかもしれない——そのように思いつつも、戦災を経て区画整理や再開発が進んだであろうし、期待はできないなとマップを開いたら……
 はたして、あった。
 それらしいエリアが、あるではないか!

真ん中通るは山手線。沿線の北には、恵比寿ガーデンプレイス内の東京都写真美術館。南には目黒駅。その中間の区画が吉田邸(Googleマップより
【図1】旧吉田邸近辺を拡大(Googleマップより
【図2】先ほどの絵図の吉田邸近辺を、上下逆さま(北を上)にして拡大

 道路網が、ほとんど当時の形状を留めていることがわかる。
 広尾の山種美術館から、歩けぬ距離ではない。猛暑をおして、フィールドワークしてみることにした。

 照合すると、【図1】の上部で空白になっているあたりに、御舟や吉田家の親戚・縁者の住む家々があったことになる。当時、周辺は緑豊かで、三光鳥などの鳥も多くみられたという。
 この空白には現在、なにがあるのか。
 答えは、これ。

 一度見たらまず忘れない、知る人ぞ知る現代の奇観「日の丸自動車学校」である。
 かつて、この巨大な赤玉を恵比寿ガーデンプレイスから初めて目にしたときは、わが目を疑ったものだ。

 上の写真左のブロック塀の直線が、【図2】の上端にあるまっすぐな境界線に一致すると思われる。
 すなわち、このブロック塀の向こう側が御舟のアトリエ兼自宅があった地であり、現在はその上を日がな一日、教習車が走りまわっている……

アイドルなど芸能人が多く通う自動車学校として、その筋では有名らしい。目黒派=赤曜会のシンボルマークは赤丸に黒字で「悪」だったそうだが……さすがに関係ないか

 《炎舞》をはじめとする、きょう山種美術館で観てきたかなりの数の御舟作品が、この地で描かれたことになる。
 さらに小林古径も吉田家とは昵懇で、同じくパトロンの間柄であったから、ここは古径ゆかりの地でもあるのだ。

【図1】の「FDC目黒ビル」、その下の光村図書出版の本社ビル(この写真左のレンガの建物)のあたりが、吉田家の本邸跡
【図2】にみえる踏切や踏切に至る下り坂は、そのまま残っている

 この踏切を渡り、山手線の内側に入っていったあたりが、「長者丸」と通称される高級住宅地。「白金長者」に由来するこの一帯を切り拓いて宅地化したのは、他ならぬ吉田弥一郎だった。
 弥一郎とその嗣子、つまり御舟の義兄である幸三郎を顕彰する碑が、長者丸の片隅に立っていた。

左の石碑は昭和3年、弥一郎の没後5周年に際して長者丸の住民たちが建立。御舟もこの碑を見ているだろう
右の金属のポールは、幸三郎の記念碑。御舟の義兄にして所定鑑定人、御舟に関する著書も数多い。碑文には古径や御舟への言及もあった


 ——往時を偲べるものは、これくらいしか見つけられなかった。
 けれども、この界隈を歩いていると、富裕層の邸宅に混じって庶民的な路地が現れたり、日用品を手広く置いているたばこ店が現役であったりと、まだなにかありそうな雰囲気が漂う。折を見て、もう少し歩いてみたい。

日の丸自動車学校の近辺にて撮影



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