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本を読むということ③ 近代文学1.0とポストモダン

 近代文学1.0が何であったかというと、一つ象徴的なものは松山市にある坊ちゃんとマドンナの銅像と顔出しパネルなんじゃないかと思います。近代文学1.0は所詮その程度のものだったと見做してもいいんじゃないでしょうか。極論に聞こえるかもしれませんが、圧倒的に多くの人にとって、近代文学とはその程度のものであったと認めるべきではないでしょうか。圧倒的に多くの人々にとって『坊ちゃん』のヒロインはマドンナなのです。しかしもちろん『坊ちゃん』ではマドンナは一言も発していませんし、「おれ」と恋もしません。それでも松山市民は坊ちゃんとマドンナの銅像と顔出しパネルで観光客を呼ぼうとするのです。この文学とは全く関係ないような商売根性こそが、近代文学1.0の正体ではないかと思うのです。

 あるいは近代文学1.0とは、「文豪の愛した料理」であり、「文豪ストレイドッグス」や「文豪アルケミスト」で「刀剣乱舞」や「ウマ娘」のように擬人化される「文豪」というおもちゃを遊ぶものであったと言っても良いかもしれないですね。「文豪ストレイドッグス」や「文豪アルケミスト」は擬人化ですね。キャラクターを立たせるために単純化して必殺技を与えます。ゲームの世界の、スキルやレベル、属性の概念を付与して、「文豪」を玩具にします。そもそも太宰治や中原中也を「文豪」呼ばわりすることが遊びですね。文豪とは幸田露伴、森鴎外、夏目漱石、谷崎潤一郎まででしょう。立原道造はどうしたって文豪ではありません。

 実は近代文学1.0とは、殆ど読まれることそのものには関係ない世界における文学のくくりだったといってよいのではないでしょうか。このことは夏目漱石の『虞美人草』が前評判から大人気で浴衣迄売り出されたという事実が「解らなく」させていると見てもよいでしょうか。何しろ『虞美人草』は吉本隆明が言っているように、かなり難しい文章です。『文選』を三回読んで書かれたという以上に漱石の漢籍の素養が滲み出た、高級な擬古文が混ぜられています。今でこそ右クリックで簡単に意味が調べられる仕掛けがありますが、それでも岩から雲ができるのかといちいち感心していれば、作品を読むのにその六倍くらいの文章を読まなくてはならないことになり、作品を集中して読むというのは殆ど「お勉強」です。大正期までは新聞に漢詩の投稿欄もあったようで、明治の人たちの漢語力は現在の比ではありませんが、それにしても朝刊で読んですらすら呑み込めるという層はかなりのインテリであり、しかも当時は既に英語ブームが来ていたことから、『虞美人草』の本当の読者は少し古いタイプのインテリに限られていたように思えます。そんな人はごくわずかなマニアです。しかし漱石は『虞美人草』が解らないというのはお前らの頭が悪いからだという態度を崩しません。ここまでは喧嘩です。

 実際『虞美人草』は百余年間誤読されていました。藤尾は毒薬を飲んで自殺したと言われ続けました。しかしそんなことは書かれていないのです。虚栄の毒を仰いだと書かれているだけです。虚栄の文字は作中、二度使用されます。もう一つは虚栄の市として現れます。虚栄の毒とはあくまで比喩的表現、虚栄の罰を自らに与えたという程度の意味でしょう。この『虞美人草』だけではなく、『坊ちゃん』から『明暗』まで、そして森鴎外作品の多くが読み誤られたまま、時代はついに令和となりました。

 私の近代文学2.0はまだ四、五人程度にしか届いていません。理由は簡単なもので、圧倒的に多くの人々は坊ちゃんとマドンナの顔出しパネルで満足しているからです。池波正太郎の紹介している店で名物料理が食べられればそれでいいのです。太宰治の飲んだバーで酒を飲めばそれが文学だと信じているのです。作品そのものはどうでもいいのです。精々飛ばし読みで「読破」とやっているだけで、内容に関する質問には答えられません。坊ちゃんが五分刈りであったことを覚えていません。

 しかし多くの人が小説を読み、小説がカルチャーであったという時代がかつてあり、今は時代が変わり、サブカル、あるいはポストモダンとして文学を規定しなくてはならないという勢いがあったこともまた事実でしょう。昔は新聞小説というものが意味を持ち、大衆がそれを文化として受け止め、今小説がその力を失っているという物語は、また多くの人々に支持されている理屈に思えます。確かにデータでみればヘルマン・ヘッセの『車輪の下』がベストセラーになった年があり、昔は文学全集が一定の価値を持っていたことも確かです。今、『車輪の下』を読むのは変わり者です。文学全集をそろえる人も少ないでしょう。昔は文学全集を買う一般家庭があったのです。

 それでも私は圧倒的に多くの消費者にとって、文学、あるいは小説とは、今の韓国ドラマやスマホゲーム程度の、あるいは単にサブカルと呼んで差し支えない程度のものと変わりない程度に軽々しく付き合える程度のものであるべきだったと考えています。小説が昔ほど話題にならなくなり、力を失ったのだとしたら、それは韓国ドラマやスマホゲームと大差ないもの受け取っていた層から見放されたというだけで、そのこと自体は文学の本質とはあまり関係のない話だと思うのです。

 しかし本質的な問題とは、言葉にこだわり、文学の中心にあり、近代文学を論じていた者たちがことごとく基本的な読みの水準に達しておらず、今になってみれば全く空疎な評論を振り回していたことなのだとしたら、これはあまりにも深刻過ぎて、「信じたくない」という人が殆どではないでしょうか。

 例えば夏目漱石の『こころ』の「私」がKの生まれ変わりのように仄めかされていること、こんなシンプルなことが百余年間も放置されていたのですよ。例えばアニメ映画『君の名は』では時空を隔てた男女の魂の入れ替わりが描かれます。その関係性は『こころ』に比べればかなり複雑ですが、観客はそのふりと落ちになんとかついてこられているようです。佐藤優という人が島田雅彦や高橋源一郎のKの解釈について感心しています。この人はかなり知的水準の高い人だと思いますが、この人でさえKが苗字ではなく名前であることに気が付いていないのです。これが近代文学1.0の正体ではないでしょうか。

 そうなるとポストモダンという概念そのものが珍妙なものに思えてきます。「人々に共通する大きな価値観」が顔出しパネルと文豪飯であれば、それはまだ失われていないからです。対談でポストモダンという言葉が出るたびに断固として拒否し、デリダやソシュールを近代主義のくずれだと切り捨てた江藤淳はある意味で正鵠を射ていたのではないでしょうか。テクスト論というものがポストモダンの中から現れて、ではどれだけテクストが正確に読んでこられたかといえば、例えば夏目漱石に関しては一ミリも進歩していないわけです。柄谷行人の漱石論は基本的な読み誤りから無残なものになってしまっています。

 表層的に読んでも、漱石に不意打ちを食らわせることにはなりません。むしろそうしたテクスト論でないところ、漱石のコードに従って精読するスタイルの小森陽一、石原千秋が本来のあるべき近代文学に接近しているのではないかと思います。しかしこの二人にしてまだ読み落としがあるのも事実です。

 例えば『三四郎』で池を見て、野々宮はポケットを探り、何かを探します。財布でしょうか、懐中時計でしょうか。結局探し物は見つからず、その後野々宮は蝉の羽根のようなリボンを買いますね。これは油蝉ですか、ツクツクボウシですか? その後食べる西洋料理はカツレツですか、ライスカレーですか?

 昼飯を食いに下宿へ帰ろうと思ったら、きのうポンチ絵をかいた男が来て、おいおいと言いながら、本郷の通りの淀見軒という所に引っ張って行って、ライスカレーを食わした。(夏目漱石『三四郎』)

 やはり文豪飯に興味がありますか。西洋料理がカツレカレーでもいいのですが、野々宮の探し物と蝉の種類には意味があります。そして野々宮と三四郎が食べた西洋料理はライスカレーではないでしょうね。

 それからこれは何度か書きましたが『三四郎』で美禰子と三四郎が小川のふちの草の上に坐って話しているところへ、突然「知らん人」が現れて睨みつけますね。

 ところへ知らん人が突然あらわれた。唐辛子の干してある家の陰から出て、いつのまにか川を向こうへ渡ったものとみえる。二人のすわっている方へだんだん近づいて来る。洋服を着て髯をはやして、年輩からいうと広田先生くらいな男である。この男が二人の前へ来た時、顔をぐるりと向け直して、正面から三四郎と美禰子をにらめつけた。その目のうちには明らかに憎悪の色がある。三四郎はじっとすわっていにくいほどな束縛を感じた。男はやがて行き過ぎた。(夏目漱石『三四郎』)

 この「知らん人」はまるで村上春樹の『騎士団長殺し』の「白いスバルフォレスターの男」のようではありませんか。私自身、村上春樹の『騎士団長殺し』の「白いスバルフォレスターの男」を見るまでは、ここはなかなか腑に落ちなかったのですが、村上春樹の『騎士団長殺し』の「白いスバルフォレスターの男」の後では、ああ、なるほどという感じがします。おそらくこの「知らん人」は夏目漱石の特別出演なのでしょうが、そうした解釈が生まれるのは、私という人間の腸内ポリープならぬ、腸内フローラのようなものが漱石サーガ以外の読書体験や人生経験というパラテクストごと作品と出会ったからですね。そんな出会いによって、これまで見えてこなかったものが一つずつ見つかること、それが私の考える近代文学2.0の方法です。まあ、ただ読むだけなんですが。断片に「風呂に入る事」と「髭の人に会う事」が並べてメモされています。つまりこれは重要なプロットなんです。村上春樹を認めた吉本隆明も村上春樹を拒否した江藤淳も、夏目漱石の作品に対する理解に関してはどっこいどっこいです。もう少し丁寧に読んでいかねばなりません。「金の延べ金」が解っていた人など何人いるでしょうか?

 当然こんな言葉は、この言葉で傷ついてしまう名前の挙がらない何万人かを厳しく攻撃していることにはなると思います。正直、島田雅彦、高橋源一郎の説に感心していた人、そうでなくてもKが苗字ではないと気が付いていなかった人は少なくないでしょう。乃木大将夫妻の殉死がおかしいと、考えたこともなかった人が殆どでしょう。そういう人は坊ちゃんとマドンナの顔出しパネルから顔を出して写真を撮っていればいいのです。もしもそれでは我慢できないというのであれば、私の著作を一冊ずつお読みください。顔出しパネルから本当の近代文学に導いてあげます。そこからしか近代文学は始まらないでしょう。百余年間も近代文学を放置していた人たちの本を読んでも無駄です。





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