noteは自分自信との対話!?
最近、小中学生のころに授業で読んだ『徒然草』で綴られていたこの一節を思い出す。
「心にうつりゆくよしなしごとを、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ。」
現代語訳すると、
「心に浮かんでは消える他愛のないことを、ただなんとなく書いていると、熱中のあまり妙な気分になってくる。」
くらいの意味らしい。
noteを始めてから、なんとも奇妙なこの感覚を覚えるようになったのだ。
◇◇◇
僕がnoteを始めてからしばらくが経った。
幸いにも書くことには困っておらず、毎日書きたいことが増えていくようといっても過言ではない。
日常で心に浮かんだことを書き綴っているだけなので、構成を事前に考えたりはしていない。
むしろ、構成を考えていないからこそ、執筆中に新しい視点や文章が浮かんでくる。
文章を書いているときは、まさに自分自身と向き合っている。
忙しい日常の中で、自分の思考を冷静に見つめなおす機会は中々ないだろう。
僕自身、noteを始めるまでそれに気づかなかった。
「自分はこんなにも自分と向き合えていなかったのか。」
と思わされたのは本当にごく最近の話だ。
◇◇◇
僕は、日常で心に思い浮かんだことがあったらメモをするようにしている。
今までは、それで満足していた。
しかし、noteでそれを文章に書き起こし始めてからそれが変わった。
文章を書く過程で書きたいことはどんどん増えていき、その思考はさらに広がっていく。
今読んでいただいているこの文章だって、この後どう展開していくか僕にもわからない。
それこそ、
「心に浮かんでは消える他愛のないことを、ただなんとなく書いていると、熱中のあまり妙な気分になってくる。」
のだ。
◇◇◇
noteを書いているときの僕は、
「どこに着地するのか、書くまで自分でもわからない」状態だ。
この感覚が最高に楽しい。
これが、随筆やエッセイ的な文章の楽しさなのだろうか。
僕はいままで、論文のような論理的な構成を求められる文章を多く書いてきた。
社会で必要とされるのは、論理的な文章だ。
随筆・エッセイといったような文章を書いたことがある方は少ないのではないか。
僕は現状、論理的な文章を書くのが苦手だと思っている。
(もちろん、克服するために勉強の毎日だ。)
論文においては、自分の主張を通すためのロジックをわかりやすく示す必要がある。
卒業論文の執筆中、指導してくれた方にこんなニュアンスのアドバイスを受けたことがある。
「論文は山登り。自分の主張という登る山を決め、その根拠を示す登山ルートを決め、それに沿って書いていく感覚だ。」
今でもこのイメージは大切にしているが、やはり実践するのは苦手だ。
その理由こそが今まさに書いているこの文章だ。
僕は書いているうちに寄り道をしまくってしまうのだ。
寄り道が楽しくて仕方がない。
決められた登山ルートに沿って書いていても、どうしても書きたいことが頭に湧いてきてしまう。
論文を書いている時は、この感情を押し殺さなければならない。
どうにか寄り道しないように必死なのだ。
◇◇◇
noteの世界では、そのしがらみから解放される。
今、この瞬間に心に浮かんだことを、そのままモニターに投影している。
モニターに映し出された自分の心と向き合いながら、さらに書き進めていく。
まさに、自分との対話だ。
ぜひ一度、目標や義務感といったものを忘れ、文章を書くことを通して自分と向き合ってみてほしい。
「あやしうこそものぐるほしけれ。」
「熱中のあまり妙な気分になってくる。」
この感情の正体は、普段は決して会うことのできない、自分自身との対話による高揚なのかもしれない。
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