【読書】 国立大学法人化の功罪を問う 杉野剛『国立大学法人の誕生』
各大学で学費値上げ問題が波紋を広げる中、かねてから指摘されてきた国立大学の疲弊が克明になりつつある。2003年に国立大学は法人化されて「国立大学法人」となり(それは似ているようで似て非なるもの)、それは自由化と引き換えに各大学の財源確保努力や教職員・施設の疲弊という問題も産んだ。
本書はそうした功罪を有する国立大学法人の成立過程を資料と当事者にあたりつつ振り返った大著となる。当時の橋本龍太郎内閣における「行革」の濃厚な雰囲気̶̶「政府直営事業の民営化」「大学教育の分野にももっと競争原理を導入」(読売1997.1.15)という大きな潮流の中で生じた国立大学「民営化」の過程を資料と当事者に当たりつつ振り返った大著となる。(当時の「政治主導」「市場原理主義」の雰囲気を簡単に知るには弘兼憲史『加治隆介の議』などがある)
方針が打ち出された後、「独立行政法人化」は「民営化」として受け止められたが、他ならぬ東大附属病院の「四六組」と称される教授陣が民営化方針を支持。国大協会長たる東大総長のお膝元で附属病院は「独立」を図った。著者は「まるで国立大学が一方的に法人化を強いられた被害者であるかのように評するのは…あまりに一面的な見方」(29p)として根拠として東大病院の「独立運動」を挙げる。しかし、いかに東大の政治的影響力が強いからといって、それを持って「行政改革の犠牲」を否定できるとするならば、それは東大の政治的影響力を国立大学全体に(価値的に)匹敵するものと錯覚しているに過ぎないのではないか。全体に「法人化功労者」にフォーカスし、国立大学法人化による「犠牲」の否定に努力が割かれている。
本書の詳細な時系列の確認と膨大な当事者への取材は特筆するべきだが、一方で法人化の必然性については考察され尽くしているとは言い難い。新自由主義的な潮流に基づく「行革」の問題̶̶論理を様々持ち出してはみても、本質的に予算削減の手段として民営化を弄する̶̶を、「大学人も(一部は)望んでいた」という論理で矮小化し、政治家と文部省官僚を免罪しようとしてもどうしようもない。本書はあくまで「政治家(ないしそれに従う官僚)」の視点から見た「大学人」に対する「改革」の(自伝的)軌跡として読むべきで、その点で国立大学に対する批判的視座が貫徹されている点は留意したい。
結局、大学法人化は「各省庁がなかなか政権党のトップの言うことを聞かないから、いかにして官邸の権限を強化するか」(58p)という「政治主導」の潮流の中で、「マネジメントの質的な改善」を表看板としつつ、実質的には「組織の量的なスリム化」をことさら強調する形で推進されていった。「政治主導」の中で国家公務員の定員削減は「10%」が「20%」となり、「6兆円の減税」を掲げる小渕恵三政権下で、「一番に目をつけられる」国立大学が標的となる。「官から民へ」「国立大は経営努力が足りない」「国立学校に1兆5000億円もかけるのは問題」という声が充満する政官界の姿は、30余年を経た今、変わっている
だろうか。
本書について批判的に書いたが、国立大学法人化の一個のドキュメンタリーとしては惹きつけられるものがある。バブル崩壊後の不景気と社会問題、サッチャリズムなど国際的な政治動向、与党内の首班争い、省庁間での予算の獲り合い……様々な思惑が交錯する中、法人化が徐々に具現化していく過程を丹念に追うの
は、当時文部省官僚として当時の法人化を主導した著者にしか書けない精緻さといえる。
国立大学の法人化そのものが問題なのではない。問題は、法人化が「マネジメントの質的な改善」よりも「組織の量的なスリム化」=予算・人員削減が全面に打ち出され続けた結果が現在の状況につながっていることのはずだ。本書では様々な改革案や国立大学の問題意識が提示され、それ自体は妥当性を感じるものばかりだが、それは結局コストカットのための方便でしかなかったように思えてしまうのは現在の状況に拠るものだ。著者が言う「法人化の功労」が真に意味をなすとすれば、現在の国立大学の諸課題がオルタナティブに解決されなければならないが、現在の国立大学「法人」では果たしてそれがなしうるのだろうか。
(O)
〔杉野剛『国立大学法人の誕生』ジアース教育新社、本体3,800円〕
(2024年10月8日)
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