見出し画像

犯罪抑止に新たな可能性?──警察の顔認証技術が示した効果と課題

米国の都市部では近年、警察が捜査に顔認証技術(Facial Recognition Technology:FRT)を導入する動きが広がっています。一方で、プライバシーや人種的バイアスなどへの懸念も強く、実際に「どれだけ犯罪抑止の効果があるのか?」についてはデータに基づく検証が不足していました。

そうした中、米国の268都市を対象に「FRTを使った警察活動がどのように暴力犯罪に影響を与えているか」を調べた興味深い研究が学術誌『Cities』に掲載されています。タイトルは「Police facial recognition applications and violent crime control in U.S. cities」。主著者はThaddeus L. Johnsonさん(Georgia State University)ほか複数名。

論文の結論によれば、「FRTを導入した都市では暴力犯罪、特に殺人の発生率が減少する傾向が見られ、逮捕総数や人種格差の拡大にはつながらなかった」そうです。果たしてどういう分析手法で、どこまで信頼できるのか? 本記事では、研究の背景や方法、主な結果をわかりやすくご紹介します。



研究の背景と目的

監視強化と市民の反発

アメリカの都市警察でFRTが注目されている理由の一つは、激化する暴力犯罪に迅速・確実に対応する狙いがあるからです。特に殺人事件は警察にとっても対処が最優先される犯罪の一つですが、捜査リソースや人員不足が課題になっている自治体は少なくありません。一方で市民の側には「顔認証で無差別に監視されるのはプライバシーの侵害では?」という不安も根強くあり、一部の都市ではFRTの使用を条例で禁止する動きも出ています。

「抑止力」の仮説

著者たちの問題意識は、「FRTが本当に暴力犯罪を減らしているのか」という点を、データを使って実証的に確かめることにあります。理論上、逮捕までの時間を短縮し“捕まるリスク”を高めれば、犯罪者側の抑止につながるというのが「抑止理論(deterrence theory)」の考え方です。FRT導入がこの抑止力を強化し、結果として暴力犯罪が減少するのではないか――そこを統計的に探ろうとしたわけです。


どのようにデータを集め、分析したのか

268都市・1997年〜2020年までをカバー

研究チームは、米国司法統計局(BJS)の「LEMAS(Law Enforcement Management and Administrative Statistics)」という警察関連の大規模調査データと、FBIが公表する「Uniform Crime Report(UCR)」の犯罪統計を組み合わせました。対象期間は1997〜2020年で、警察官100名以上を抱える自治体を中心に抽出し、計268都市を分析対象にしたとのことです。

一般化差分の差(Generalized DiD)で因果関係を推定

FRTは都市ごとに導入時期が異なるため、いわゆる「自然実験」の形で差分の差(DiD)手法を用いることが可能です。具体的には、「FRT導入前と導入後で暴力犯罪にどんな変化があったか」を、FRTを導入しなかった自治体との比較を通じて把握しようとしました。また、FRTの導入時期が都市ごとにズレているため、従来の2グループ×2時点だけのDiDではなく、「一般化差分の差(Generalized DiD)」を採用しているのも特徴です。

暴力犯罪・逮捕・人種格差の三つを注目指標に

分析で注目した指標は、大きく分けて「暴力犯罪率(殺人、強姦、強盗、加重暴行など)」「暴力関連の逮捕率」「逮捕における人種格差」の三つです。FRT導入が犯罪率を下げるだけでなく、逮捕率やブラック・ホワイト間の逮捕格差に影響を与えているかどうかも調べました。逮捕格差に関しては人種的バイアスの懸念が高いため、特に注視したそうです。


主な研究結果

殺人の減少が特に顕著

まず研究者たちは、「FRTを導入した都市では、殺人の発生率が14%ほど減少する」という結果を得ました。その他の暴力犯罪(強姦・強盗・加重暴行など)は統計的に有意な変化が見られないケースが多かったものの、殺人に関してはもっとも大きな効果が示唆されたとのことです。

さらに導入時期の早い都市ほど減少幅が大きく、FRTをいち早く採用した自治体では28%近く殺人件数が抑えられたという推計も出ています。これは「時間が経つほどシステムが洗練され、捜査の精度やデータベースの充実度が増すからではないか」と研究者は推測しています。

逮捕数や人種格差の増加は確認されず

一方で、FRTが逮捕数を増やしたり、人種格差を拡大したりする効果は確認されませんでした。むしろ「抑止力によって逮捕の数自体は変わらないまま犯罪が減る」という傾向が見られるため、いわゆる“行き過ぎた警察権力の行使”には繋がっていない可能性があると研究チームは述べています。

ただし、「FRTの誤認識で無実の人が拘束される」といった個別の事例が皆無というわけではなく、そうした点については今後も継続的なモニタリングが必要だ、とも慎重に言及しています。


この結果から読み取れる新たな視点

本当に抑止力が働いているのか?

研究者たちは、FRT導入によって「犯人逮捕の確実性やスピードが上がる」(つまり制裁の“即時性”と“必然性”が高まる)と考えられるため、潜在的犯罪者が犯行をためらう効果があるのではないかと推測しています。しかし実際、暴力犯罪における逮捕効率は大きく変わっておらず、「FRTがどのように犯罪者心理に作用しているのか?」は断定できないままです。

著者らは「より詳細な逮捕プロセスや捜査期間の短縮を示すデータが必要」とし、ここではあくまで理論的推測にとどめています。

捜査リソースの最適化

逮捕数が増えなかった背景として、「捜査が効率化され、本当に悪質な犯人を重点的に追跡しやすくなった」可能性を挙げています。特に繰り返し暴力犯罪を起こす人物を早期特定・逮捕できれば、都市全体の暴力犯罪を抑制する効果は大きいはずです。ただしこの点は今後、事例ごとの分析が求められそうです。

プライバシーと透明性のジレンマ

一方、いくら犯罪抑止に効果があっても、市民のプライバシーや誤認逮捕のリスクが課題として残ります。研究者たちも「FRTの規制は各自治体でバラバラ。共通のガイドラインがないまま広がることには警戒が必要」と述べています。適切なトレーニングや制度設計がなければ、今後、差別的運用が増える懸念もぬぐえません。


まとめと今後の展望

論文全体を通して、「警察によるFRTの活用は暴力犯罪、特に殺人に対して一定の抑止効果がありそうだが、一方で懸念されるような逮捕数の急増や人種格差の拡大には結びついていない」というのが大まかな結論でした。研究者たちは「FRTの実運用はまだ一部の地域やバージョンに限られており、改善・調整の余地は大きい」と強調しています。

私自身としては、「テクノロジーが持つ抑止力や捜査効果は決してゼロではないはず」だと感じつつも、無辜の市民を過剰に監視しないルール作りが重要だと再認識しました。日本を含めて世界各地で同様のシステム導入が進む中、私たち市民も「安全をどう守り、どうバランスをとるか」という観点から議論を続ける必要があるのではないでしょうか。


参考情報・ライセンス表記

  • 論文タイトル
    “Police facial recognition applications and violent crime control in U.S. cities”

  • 著者
    Thaddeus L. Johnson, Natasha N. Johnson, Volkan Topalli, Denise McCurdy, Aislinn Wallace

  • 掲載誌・URL
    『Cities』 Volume 155, December 2024, Article 105472
    https://doi.org/10.1016/j.cities.2024.105472

  • この論文はCC BY 4.0ライセンスで公開されています。

いいなと思ったら応援しよう!