読書記録 シェイクスピア『リチャード3世』 (福田恆存訳)

あらすじ

『リチャード3世』は、身体障害を抱えたグロスター公リチャードによる、ある種の「宣誓」から幕を開ける。

あのおためごかしの自然にだまされて、美しい五体の均整などあったものか、寸たらずに切詰められて、無様な半出来のまま、この世に投げやりに放り出されたというわけだ。歪んでいる。びっこだ、そばを通れば、犬も吠える。

シェイクスピア 福田恆存訳『リチャード3世』新潮社

この虚飾の世界、今さら色男めかして楽しむことも出来はせぬ、そうと決まれば、道は一つ、思いきり悪党になって見せるぞ、ありとあらゆるこの世の慰みごとを呪ってやる。

シェイクスピア 福田恆存訳『リチャード3世』新潮社

世を呪うリチャードはその後兄弟たちをはじめ、周囲の人間を次々と手にかけ、玉座を自身の手中に収めていく。

嫌われ者のリチャード

暴走するリチャードに対して、殺された者たちの妻や親が詰め寄るシーンが度々挟まれているが、リチャードたちの母は次のように告白する。

昔、夫の死に、辛い涙を注いだ私は、その忘れ形見に面影をさぐりながら生きてきた、それが、今、生きうつしの二つの鏡が、悪意に満ちた死神の手で粉々に砕けてしまったのだ。せめて、その慰めにと、この手に残されたのが、あの歪んだ鏡、それを眺めるたびに、私は自分の恥を見とめて、悲しくなる。

シェイクスピア 福田恆存訳『リチャード3世』新潮社

また、他の場面では

お甘えがまだ呪われた胎のなかにいるうちに、締め殺してしまえばよかった、そうすれば、その手で犯した残虐非道の人殺しの邪魔ができたろうに!

シェイクスピア 福田恆存訳『リチャード3世』新潮社

「忘れ形見」「生きうつしの二つの鏡」とはリチャードの兄たちのことであり、一方の「歪んだ鏡」はリチャード3世のことを指している。

実母すら「締め殺してしまえばよかった」と吐き捨ててしまうのも、リチャードの自業自得ではあるが、リチャードが身内の惨殺に至るほどに抱えきれなくなったコンプレックスや孤独を思わずにはいられない。

俺にはお追従が言えぬ、作り顔が出来ぬ人前で笑顔を浮かべ、愛想よくもてなし、相手を罠にかけるなどというまねは出来ないのだ。もちろん、フランス流に家鴨のこっくりも出来なければ、えて公そのままのお辞儀も出来ない、だから、胸に一物あるように睨まれる。一人の凡人が世の片隅で、ひとに迷惑をかけずに生きてゆこうというのに、それも許されぬというのか?

シェイクスピア 福田恆存訳『リチャード3世』新潮社

実際のリチャード3世は脊椎側弯症だったと言われているが、作中では障害による日々の苦労だけでなく、そのことから人と関わるうえでも周囲の人間と同じような振る舞いが出来ないことが彼を悩ませていたことが伺える。

絶望だ。身方は一人もいない。俺が死んでも、誰も、涙一つこぼしはしない。いるわけがない。俺自身、自分に愛想を尽かしているのに、誰が涙を?

シェイクスピア 福田恆存訳『リチャード3世』新潮社

ボズワーズの戦いで追い詰められたリチャードがこぼしたこの言葉。
身体障害を抱えていることによるコンプレックスから、悪党として生きることを宣言したリチャードだが、最後の最後に一瞬だけ「俺自身、自分に愛想を尽かしているのに」と本音をこぼしたのだ。

身体障害にくわえ、人と人との機微に疎かった彼が、そんな自分から目を背けるためにとった手段が悪党を演じることであった。

しかし、悪党を演じていくうちに彼の孤独は解消されるどころか、どんどん膨れ上がり、ついには彼自身を破滅へと導く結果となってしまった。彼がもう「悪党」を演じきれないと悟った時の絶望たるや。

近年、遺骨が発見されたことをきっかけに簒奪者としての彼のイメージが刷新されつつあるのが救いである。

ロンドン塔の王子たち

作中、ロンドン塔に幽閉され、リチャードの毒牙にかかった彼の甥たちは絵画のモチーフとして描かれている。

その中で最も知られているのが、ドラローシュによるものとミレーによるものだろう。


ポール・ドラローシュ『ロンドン塔の王子たち』1830年、ルーヴル美術館所蔵
https://collections.louvre.fr/en/  


ジョン・エヴァレット・ミレー『ロンドン塔の王子たち』1878年、ロンドン大学ロイヤル・ホロウェイ校所蔵
https://www.royalholloway.ac.uk/about-us/art-collections/ 


どちらも場所は違えど、少年たちが不安げに寄り添っている。
シェイクスピアによる『リチャード3世』に触れる前に、この作品を目にしている方も多いかもしれない。

私もこれらの絵画の存在を先に知った。
「権力争いに巻き込まれ幽閉された悲劇の王子たち」というこれらの作品に付随するざっくりとしたエピソードは知っていたが、読了後、改めて作品を見ると彼らに迫る不穏な影がさらに顕なものになっていく。

特にドラローシュ版『ロンドン塔の王子たち』に描かれる王子たちが手にしているのは聖書である。

「大理石のような腕をだして、お互いに抱きあっていた。唇は、まるで四つの赤い薔薇の花、夏の光が浴びて美しく照り映え、口づけするように寄りそっている。その枕もとに、お祈りの本が、一冊ころがっているのをみて、俺はすんでのところで」

シェイクスピア 福田恆存訳『リチャード3世』新潮社

少年たちを手に掛けた晩について、刺客の口から語られる場面である。少年たちは自分たちに魔の手が迫りつつあることを知りながら、ふたり寄り添い、お祈りをしていたのだろう。

実際の彼らについても、リチャード3世同様に研究が進み、新たに発見された手紙などから生存説が出ている。
「悲劇の王子たち」であることが、これらの絵画作品の凄みというか、面白みを増している要素であると思うが、生存説が正しいのだとしたら、彼らのロンドン塔脱出後の人生について詳しく知れる時が楽しみである。その時、『リチャード3世』やこれらの絵画の見え方が変わるのだろうか。


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