「わからない」まま出せ! 「わからない」の強さやその良さがある!
「わからない」と思うことを、どう考えるか。
この日本の現代社会では、わからないことは、マイナスなイメージが強いように思う。
わからないと、素直に言えるだろうか。
なかなか「わからない」ことを、表に出そうとすることは少ないように感じる。
しかし、「わからない」ことにも良さがあることを伝えたい。
今回の創造の雑談では、「わからないこと」と「進歩」を織り交ぜた切り口で深掘りしている。
「わからない」まま出すことは、自分の最先端!
PRTという大人の自由研究プロジェクトに関わっている。
そのプロジェクトのコンセプトは、わかりやすさを気にすることなく、自分が情熱をもって研究していることを5分間プレゼンする。
聞いている人がわかる、わからないも気にせず、クオリティも気にする必要はない。
そんなプロジェクトに参加していることもあって、ある時、考えていたことをわからないまま、文章や言葉にすることがあった。
相手に伝わるかはわからないけれど、自分さえも書いていてわからないまま、とりあえず出してみた。
でも、それは、自分の中の最先端を表現したものだと思えたのだ。
自分でさえもよくわかっていないものが、他の人がそれを読んでも、当然わからない。
でも、「わからないけど、なんとなくわかる」と言ってくれる人もいた。
「わからない」ことをわからないまま出すことで、その場で対話が生まれもする。
上下関係や権力関係も生まれず、お互いわかろうとする努力をする。
「わからない」ことで、際に点を打たれた感じがして、新たな問いが生まれたり、気持ちや思考に変化があった。
整える前に、やり出す!
学生向けの海外インターンシップ向けの会社がある。
その社長さんがキャッチコピーみたいに言っていたのは、「見る前に飛べ」
グダグダ考えてないで、行ってしまえ、と。
頭で考えて考えて考えて考えていると……やらなくなる。
最初の直感で、これがいいかもと思ったら、行ってみる、やってみる。
整える前に、やれ!
TwitterやSNSは、ネットの時流を見て投稿のタイミングを測ってしまっている。
つぶやくにしろ、はっきりした形にしてから、投稿する。
あやふやな状態や炎上を避けるようにして投稿するので、わからないことをそのまま出しにくい雰囲気になっている。
それでも、やってみるのが一番なのだが、なかなか実行に移せない。
モヤモヤしたまま出せるコミュニティがあるといいかもしれないとも思う。いい具合な感じのクローズドな世界が……。
それでも、その前に、やりたいことはやっておく方がいい。
わからないこそが進歩!
進歩というものは、本当はないんじゃないかと思い始めている。
進歩は、ただ自分たちが意味づけした尺度でしかない。
基準を設けて、進んだ、遅れている、と判断しているに過ぎない。
その基準を変えてしまえば、進歩している部分も遅れている認識になる。
進む方向を、どの位置から見るかによって、ただ近づいてくるだけの時もあるし、離れて行っても見える。
進んでいく先端が、自分たちから離れていくことは、果たして自分たちが遅れていることになるのだろうか。
進歩とは、ある種、ご都合で決められているように感じられる。一体、誰のご都合なのだろうか。
ある種、進歩しているような捉え方のできることの一つに、知識が増えていくこと、がある。
しかし、まったく何も知らないことに、強さやその良さがあると思っている。
例えば、プロの中に素人が入ってきたとする。
今まで当たり前に話していたことが、途端に当たり前じゃなくり、素人には通じなくなる。
そうなると、必然とわかりやすく伝えるために、段階をおって説明していく。
今までの当たり前の説明ではなく、今までとは違った説明をしなければならなくなる。
説明する部分において、わからないことが、新しい説明を生んだとも言える。
違った説明をすることで、自分の中でそのことがさらに細分化され、認識されるようにもなる。
知識を増やすこととわからないこと、どっちが進歩しているのだろうか。
知らない、と知っている人が一番進歩しているように思う。
知識とわからないを見直し、わからないと言える強さを!
忘れてしまうことは、実は良いことだと思い始めてもいる。
もう一度、分かることができるからだ。忘れていったことも進歩とも認識できる。
知識や知性を今一度、考え直した方がいいと指摘している本がある。
知性を崇拝してみなさい。抜け身のないやつだと見られながら、常にビクビク怯える日々を過ごして、やがて自分の愚かさを感じ、おしまいになるでしょう。
また、同じように、
知識で理論武装し、相手を論破する、自分を守るための盾にしていないか?
何も知らないとわかっていて、そのわからないことを人に聞ける方が、実は豊かである。
と言う人もいる。
知らない、と言えることは強い。
話を聞いていて、わからないことがあったとしても、わかったていで話を聞いたり、わかったふりをしながら、先に進むことはないだろうか。
それについて1人が知らないと、その場にはだいたい5〜6人くらい同じように知らないという人がいる。
素直に「わからない」と言うと、わからない人たちを助けることになるのである。
本来、できないことやわからないことを開示した人の方が豊かになると思える。
それこそ、転職や面接では、できることを聞かれる。当たり前の光景である。
3割増しくらいで、できなくてもできると言ってしまう。
そこからミスマッチが生まれている。
できないことの下のラインでマッチングした方が、ミスマッチは起こらなくなるのではないかとも考える。
面接官側も、人を見抜く目を養うと言ったノウハウがあるのかもしれない。
しかし、みんなが正直になれば、見抜く目もいらなくなるでしょう。
誰もを、何ごとも見抜かなきゃいけないこの社会に、強く違和感を覚える。
そもそも、見抜けるのかというレイヤーの上に、見抜く必要があるのか、という問いがあることは、とても大事だと思う。
もちろん、できることできないことを認識している部分、認識できていない部分があるのは前提である。
それでも、3割増しで話してしまうこと自体が、おかしいように強く感じている。
まとめ:わからないと言える素直さを
わからない、とは一見、マイナスのように思ってしまう。
「わからない」と不安である世の中で、不安を抱えさせようとしている社会にも思う。
しかし、わからないからこそ、情熱が持てたり、対話を生んだり、違った切り口での説明を生み、知識を増やすことができる。
「わからない」が先へ進ませたり、場を豊かにする。
自分の「わからない」に素直でいていい社会、「わからない」と本音で話せる社会になってほしいと願っている。
次の佐野弘(仮)もお楽しみに!
佐野弘 with 水島一輝