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割ってしまったコップをそのまま使い続ける

洗い物してて、ついうっかり滑らせ、割っちゃった。

長く愛用していたのに、とっても残念。さぞ痛かったろう。ごめんね。

でも次の瞬間、「これ、面白い」と思った。「使える」。

なので、捨てず、このまま使うことにした。

本体はそのまま食器として。
スープを飲むのに使ってたけど、取っ手なしでも大丈夫かな? 指、熱いかな。

取っ手はインテリアとして。

箸置きにしてもいいかも。

これって、楽しい。まさにクリエイションだ。

ありのままを活かす

というのも、創造だなあ。

ありのまま、といえば、週末のJOYWOW稼ぐ教養講座テーマが『古事記』。

古事記本体は暗唱するほど読んでるのだけど、あちこちの研究書にも目を通して、でも、いまいちクリエイティブじゃない。

ところが、本居宣長『古事記傳』ざっと見てたら、「文字なき世のものとして」読むべしというのがあって、衝撃受けた。まさに。

本居宣長『古事記傳』

『古事記』が書かれた当時、日本には文字がなかった。だから太安万侶が苦心して漢字を当てはめて書いた。でも人々は、文字なしで暮らしてたんだ。

本居宣長は上田秋成と論争している。秋成は『雨月物語』を愛読していて彼も好きな作家だけど、論点は「合理」にあった。

秋成を始め、同時代の識者は古事記を江戸時代の論理で読み取ろうとした。当然、江戸時代は論理が成立する。特に、書き言葉が発達すればするほど、論理が明確になる。

なぜなら、文章を書く、ということは、脳内にある言葉に順序づけをする、ということだから。

これを、ランダムに並べてみよう。順序抜きで。

「順序づけにあるをする脳内ということは、ということなぜ書くを文章だからなら、」

同じ言葉を使っても、上記のようになると意味がわからなくなる。論理がつながらないから。

話し言葉だけの世界にいる人は、まず、江戸時代のような論理がない。
存在しない。

だから、古事記をそのまま読むと、「あやしい」気持ちになる。

この「あやし」こそが、大事なのであり、利口ぶった意味づけなどはいらないのだ。本居宣長は、言う。

大賛成であり、それは割ってしまったコップをそのまま使い続ける姿勢と同じじゃないだろうか。

そう、クリエイティブだと思う。

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