親ゆずりの無鉄砲で子どものときから損ばかりしている
小6(12歳)だった。
自宅書庫奥の奥から出てきた。
ついでに村上春樹も。
最初に買ったのが『坊っちゃん』。奥付の書き込みによると紀伊国屋書店、昭和45年。
この頃から奥付に書き込むクセがあったんやね。自分なりのK.Sのサインまでしてる(笑)。浜小学校、浜小をローマ字で書いて。六年四組
大阪万博の年、ぼくは小学校6年。
以来、『坊っちゃん』といえばこの本だし、『三四郎』『吾輩』『しろばんば』もすべてこの本の手触り、挿絵。
偕成社ジュニア版日本文学名作選。
素晴らしいのは、すべて丸ごと原文が掲載されていること。
二段、小さい活字。
ニューヨークへ飛んだり、葉山へ引っ越したりぼく本人はあちこち動いてるが、彼らはじっとしてた。
人生の何かの折にふと読みたくなる。
ニューヨークのど真ん中で『三四郎』に会いたくなり、現地の紀伊国屋へ行き、高い文庫本買った。読んだ。でもぴしっつ、と来ないのはこの本じゃないから。
葉山で『しろばんば』読みたくなった。夕刻、空見てて。
単行本買ったのかな。
読み続けられなかった。洪ちゃの話はこの本で読みたい。
『坊っちゃん』。暗記してるくらい好きな作品だ。文庫本も2冊、別バージョンで持ってる。でも、これでなくては。
ページをめくる感触、紙のにおい、指が記憶する物語の進行。挿絵のかすれ具合。
Kindle、こうはいかない。
読んでから53年、ずっとぼくの基盤になってくれて、もはや無意識ゾーンに沈殿している。
昨日、『ユング自伝』読んでて、
すべて無意識は外へ出たがっている
とあり、そうだなあ。
ぼくの仕事・・・書く、話す・・・は無意識に任せたほうが自分でも面白くなる。
アタマで考えたものはつまらん。
昨日今日読んだものは意識(アタマ)にある。
読んでよんで読んでよんだコンテンツは、長い時間をかけて無意識、地下二階へと沈殿・蓄積される。そして外へ出たがる。
『坊っちゃん』『三四郎』『吾輩は猫』『しろばんば』これら四作品が、ぼくの無意識を形成している。
だから、あらためて思った。
子どもの頃の読書は大切です。これ、真面目な話。
子ども時代に読む習慣のついた人は大人になっても読む。
クリエイションするのが無意識だとすると、子ども時代の読書こそがクリエイションの源になると思います。
ぼくの坊っちゃんと清(坊っちゃん家の下女)は、やはりこの挿絵の人なんです。