ビジネスは選択のアート、そして文学
ビジネスは選択のアート
というフレーズが浮かんだ。
ぼくは独立起業時、「コンサルティングサービス」を選択した。
ビジネスは文学
でもある。
文学はいうまでもなく、言葉のアート。
ただ言葉をたくさん持っていても、良い素材をたくさん持っているから良い料理ができるわけではないのと同様、良い文学が生まれることにはならない。
そこには必然性がなければならない。
「なぜ、これか」
和食レストランをやっているとして、〆の食事にイクラを乗っけることにした。何と合わせるか。通常なら鮭だがブリにしてみよう。その必然性を言語化し、食べるお客さんが納得できるかどうか。
必然性は、経験から生まれる。
人生経験が豊富であることだけではなく、その経験を言語化し消化しているかどうか。
一度行って良かった店を再訪し、がっかりすることがある。
つい最近も、あった。
それは、あまりにも、ボキャブラリーが少なくなっているから。
店のおかみさんとの対話が少ない
というのではない。
店に入った瞬間から、客と空間は関係を結ぶ。
客の人生の大事な時間と記憶を店は背負う。
記憶が大切に残って、やがて化石化するほどプレシャスなものへと育つ。
理想だよね。
記憶を良いものにするためには、店の照明、他の客から聞こえてくる音、もちろん接客、料理、トイレ・・・・すべてが「ボキャブラリー」と「必然」でがっちり論理が成立していなければならない。プラス、客と店とのリズムが同期する必要がある。
2回目は残念だった。ボキャブラリーも貧困だったし、リズムが最後まで合わなかった。
「3度目の真実」というフレーズはぼくが作ったんだけど、この店、3は、ない。
2で本質が顕になった・・・いや、どうだろう。
この前行ったあと、店の中で何かが起こったのかもしれない(たとえば、大将とおかみさんとの間に)。
2回目といえば、
『侍タイムスリッパー』2回目観た。
この映画の魅力は、とにかくボキャブラリーが豊富。
セリフだけではない。画像、映像がボキャブラリーで溢れている。
役者さんの顔芸(和尚さん)もボキャブラリー。
説明していないのに説明になってしまう和尚さんの奥さんの芸達者ぶり。
そして、これまで誰も指摘していないようなのだが、この映画の鍵は音だ。
音楽と音。
尺八をブルースハープ風に吹いたりすることで、シーンをさらにボキャブラリー豊富なものへと仕立て上げている。
2回目観ることで、さらにボキャブラリーの豊富さに痺れた。
3回目、いつ観ようか。