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死にたがりの僕たちへ


死にたがりの君に言えることはひとつ。


—— 死にたかったら死んでいい


「死にたい」と言えば、「死んだらもったいないよ」という言葉がこだまする。
生粋の優しさに見えて、実は呪文のような返事。

生きて、生きるために働いて、働くために生きて。つまり、生きなければならないという固定観念。この世界の束縛、或いは呪縛。

生きることは素晴らしいことだと誰しもが思っている、と思っている世界。
なんの疑問もなく生きていく人々。
その隅で孤独に死を求め、終わりを待ち侘びる死にたがり。

世の中には、生きることと幸せが繋がらない人間も居るということを理解した方がよい。

死ぬことは悪いことだ 良くないことだ
ましてや、自ら死を選ぶことなどは望まない死だ
自殺をするなんて、生きたかっただろうに
かわいそうに……かわいそうに

慈悲に見える無自覚な悪意。

「世の中には生きたくても生きられない人がたくさん居るんだよ。健康な体に生んでもらったんだから、死んだらダメ。生きなきゃ」

あなたたちは、同情というものを顔全体で表現しながら、少しの怒りをチラつかせ、"死は悪だ" "自殺は悪だ" と僕らを勇気付ける。
君たちを励ます。
そんな事を言われてしまった死にたがりの僕らは、「そうだよね。生きなきゃダメだよね。死にたいなんて言ってごめん」って、謝罪と勇気を含んだ表情をするしかなくなる。

それでもまだ「でも僕は生きていけない」なんて言ってしまったら、「何言ってんだ」なんてお叱りを受ける。

死にたがりからしたら、「お前が何言ってんだ」という気持ちだ。

時に死は幸福となる。(宗教ではありません)

もう生きられない、もう限界だと思ってしまった人間にとって、死は救済にもなる。

心の底から死を望み、行動に移した者は、瞬きのように死を求めているのではない。

しんしんと降る雪が次の日の朝には高く積もっているように、自殺願望の塵が積もって山と変わったのだ。

決定的原因のある自殺願望でも、漠然とした希死念慮でも、積もらないことには、断続的もしくは連続的な死への長い長い念願は生まれない。

人間は経験からしか物事を判断できず、言葉を放てない。
死することが救済となり得ることは、死しか残されていない者にしか分かりようがない。

救いとしての死を求める者に対して死を完全否定するということは、手を差し伸べているように見せかけて突き放しているということ。
見限っている。

安易に生を正義と見做す行為は偽善なのだ。

自殺願望を持つことは許されない。
自殺をすることは許されざる行為だ。

でも、どうか許してほしい。

僕らのような人間にとって、世界は狭すぎる。
狭く感じてしまう。
いや、狭い。狭い。


死にたがりの君たちへ。僕らへ。

この投稿は決して死を促しているものではない。
そして、生に導くものでもない。

死は恐ろしくないのだ。
いつしか必ず誰もが死に至る。
仕事や課題でいう締め切りみたいなものだと考えてよい。
眠ってから夢を見るまでの空っぽな状態と同じだと考えてよい。
目が覚めて眠っている間の記憶がないように、いつか生まれ変わった時に死の記憶はない。

周りより死を意識するのが早かっただけだ。

ただ、死を恐れた状態で死ぬことはお勧めしない。
死を受け入れられないまま、自殺を行動に移すことはよした方がよい。

徒然なるままに死ねるのなら、それがよい。

その瞬間に、悲しむ誰かを想像できないのなら。
もしそうなら、その精神が回復することは望めない。

望めない未来を望むほど、僕らは強くない。


でもね。
もし生き続けることができるのならば、その先に別の幸福が待っているかもしれない。

僕は死に恐れ慄いた結果、大切な人と出会うことができた。
その人と出会わなければ、僕は今生きていないだろう。
そして、noteを始めることもなく、ここで同じような方と出会うこともなく、孤独に苦しみ孤独に死んでいたはずだ。

死にたい
そう思った時は何も考えられないだろう。
でも、死を恐れた時が、生きる道への微かな希望だ。

あと少しだけ
あと少しだけ生きてみよう
そう思えたら、いつか幸福と巡り会えるはず。
待っているだけでは何も起こらないけれど。

僕は運が良かった。
隣で受け入れてくれる人と、まだ声も知らない同じように苦しみを持つ人々と出会えたから。

だから僕は書いている。

苦しみを書くことならできるから。







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