恋人はなぜ愛おしいのだろうか
恋人は何故こんなにも愛おしいのだろうか。そもそも、愛おしいってなんだろう。
分からないけど、愛おしいと感じるものはたくさんある。本、日の出、布団、犬、ぬいぐるみ、友人、猫、そして恋人。
たくさんの愛おしいに囲まれた日常を、平然と日常だなんて言っていいものだろうか。
そうだな、もっと特別で絢爛たるものなのではないか。改めてそう認識すべきものではないだろうか。
愛おしい日常への審美眼を持ち合わせておくべきなんだ。
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無条件に愛おしい
恋人は、無条件に愛おしい存在ではないだろうか。
こんなメリットがあるから好きだ、こういう仕草をするから好きだ、優しくしてくれるから好きだ。このように、理由がポンポンと出てくるような存在ではないように感じる。では、なぜ愛おしいのか。
日常の所々、または大半を恋人は塗り潰してくれる。鮮やかで、煌びやかで、淡い色に。
時には冷たくて錆びついてしまうこともある。でも、基本的にはこう言える。
愛おしいから愛おしい。
理由と結論が一致しているというのは、些か疑問かもしれないけれど、これが真理だと言えばそうなってしまう。
溺愛、という言葉があるけれど、それは無条件に愛おしい状態のことを指しているのだと思う。
末期になると、「歩いているだけで可愛い」とか、「生きてるだけで可愛い」という脳機能停止状態に陥ってしまう。もう、これは考えていない。文字通り、愛に溺れてしまって仕方がない。でも、水面にはキラキラと水光が煌めいていて、目を開けてみれば天使の梯子が降りてきているだろう。
さすがに、生きているだけで可愛いことはないだろうと思うけれど、ふと、横を歩いている恋人を見ると愛おしいって感じる。
そういうこと?
恋は病、なんて言うけれど、”無条件に愛おしい状態” のあなたたちはもう手の施しようがないので諦めましょう。諦めて、愛おしい人の写真でも撮っていなさい。
そこが愛おしい
よく、「好きに理由なんてない」と言う人がいる。例えば、優しいところが好きと言えば、「優しい人なら誰でもいいじゃん」とか、「優しくなかったら好きじゃないの?」なんて言われてしまうかもしれない。
そうじゃないんだぜマザーファッカー(禁止用語)、である。
「好きなところは?」と聞かれて困ってしまう人もいるだろうけど、とは言っても、好きだと感じやすい瞬間は必ず存在している。
僕は、恋人が何かを食べている時の顔が一番好きだ。リスの如く口いっぱいに頬張り、噛んでも減っている気がしない。
かと思えば、まだ口の中に残っているというのに次々に頬張っていく。もう、顔の下半分(僕はこれを下半顔と呼ぶ)が歪んでいる。
それから、不満なことがあると下唇を突き出す。(ぶぅ、という感じ) そこも食事中の表情に劣らず好きなところだ。
というように、”そこが愛おしい” から愛おしい。
自覚していないだけで、恋人を愛おしいと感じやすい瞬間はあるはず。
思いつかないなぁ……という人は、一度、意識して目を凝らしてみてもいいかもしれない。
だから愛おしい
これは、”好きな理由”と言えばそうなる。或いは、”好きになった理由”とも言える。
恋人と交際に至った時、さほど恋愛感情は抱いていなかった。けれど、彼女の人間性にはとてつもない好意を寄せていた。
一人の人間として好きだと感じていたため、交際を申し込んだ。
こんな自分を受け入れてくれる、というのが一番大きかった。当時の僕は過去最大に精神的に参っていた時期であり、何よりも孤独を恐れ、常に誰かと一緒の空間にいないと耐えられない状態にあった。そんな時に笑い合ってくれたのが、今の恋人。
交際をする前から常々感じていたことではあるけれど、彼女はとても寛容さに溢れる人だ。
つい先日、初めて実家にお邪魔したのだけれど、恋人の家族たちが ”恋人の家族” であることに心の底から納得した。彼女から感じられる空気感がそこには充満していたから。
”あたたかい家庭” とは、このことか。と、深く頷きたくなった。
今でも耐えられなくなることはあるけれど、そういう時は会いに行くようにしている。彼女の存在が、僕の心に安らぎを与えてくれる。彼女がそばにいると眠たくなってくる。
受け入れてくれる存在だから愛おしい。
というように、”だから愛おしい” と言うこともできるのではないだろうか。
***
無条件に、そこが、だから。
僕が考えることのできる三つの愛おしいを並べてみたけど、まだまだ考えようはあると思う。
普段当たり前のように感じている想いを、こうして改めて考える機会はなかなか無いだろう。
今回は恋人に限って考えてみたが、愛おしい存在は他にもたくさんいると思う。家族でも、友人でも、ペットでもいい。
暇な時か喧嘩してしまった時か、はたまた酔っている時でもいい。
今日(記事を書いた日)は1人でバーに行き、2軒目から恋人と合流して酔っぱらい、そして家でnoteを書いている。
そうすれば、愛おしさを再認識できるかもしれないし、新しい愛おしさを発見できるかもしれない。
愛おしいものたちとの日常を反芻して大切に大切に抱きしめたなら、自然と涙が頬を伝うほど、とってもあたたかいものだろう。
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