信州には蕎麦とおやき以外、何もないから…などと、信州人にはよく言われるけれど…。【キノコ・菌食】
【キノコ・菌食】
信州人は、自分たちでは気づいていないようだけれども、「食の多様性」に貪欲な人たちであると思う。
それは、縄文時代以来の伝統や、諏訪大社という稀有な信仰など、歴史に裏付けされた信州固有の食文化である。
歴史的にも、食のフロンティアスピリッツを維持し続けてきた人たちであろうと思うのだ。
ほかの土地では食べることのなかった、あるいは、食べることのなくなった食材も、信州では食べられているということがある。
きのこや昆虫などの食材の研究にも熱心であったし、タブー視されていた獣肉食についても、信州は免除の方法を持っていた。
キノコを食べることを、信州は「菌活」という独特の言葉を用いているが、菌食は、信州の食文化の大きなジャンルを構成している。
キノコだけではなく、黒穂菌の働きを利用するマコモタケや、コウジカビや酵母菌の働きによって醸造される味噌や酒、納豆菌によって作られる納豆なども菌食の一部であるとも言えよう。
名だたる味噌メーカーが信州から始まっていることからも、信州味噌の存在感の大きさを窺い知ることが出来る。
信州には、その土地ごとのご当地納豆が豊富に存在していて、納豆を選ぶ愉しみも加わる。
小粒の納豆が多くなってきたように思う昨今、信州の納豆は大粒のものが多いので、納豆好きにとってはよい環境であると思う。
菌そのものを食べる菌食という点では、キノコ類のほかには、テングノムギメシが考えられるであろうか。
テングノムギメシは別名「飯砂(イイズナ)」ともいい、その正体は、真菌や細菌、藻類などの微生物叢、集合体であるという。
山岳修験道場の多く存在していた信州では、修験者たちが、このテングノムギメシという微生物の集合体を、食べられる土「飯砂(イイズナ)」として食することもあった。
この「飯砂」が由来となったのが北信の飯縄山であり、飯縄山の修験者が、このテングノムギメシを食用としていたという伝承が伝わる。
まこともって、信州の食文化は奥が深いと思うのであるが、信州人からは、「信州には蕎麦とおやきしかないから…」なんてことを言われてしまう…。
秋田の伊勢堂岱遺跡など、縄文時代の遺跡からは、キノコ型土製品が見つかっている。
食べられるキノコを見分けるための見本だったとも言われていて、縄文人がキノコを食材としていた裏付けとも見做される。
そして、そんなキノコを食材として用いるためには、煮炊きの出来る土器の発明が必要不可欠であっただろう。
土器による煮炊きの発明は、一般にフィッシュシチューレボリューションなどと言われているようだけれども、こと信州の縄文人にあっては、キノコ汁レボリューションと言ってもいいのかもしれないと思う。
生食をすればまず中毒を起こすようなキノコという食材を、食べられるようにしてしまった煮炊き用の土器は、それに気づいた縄文人の生活を一変させてしまったはずである。
そればかりではなく、茹でこぼしというアク抜きの技術の発見によって、これまで食べることの出来なかった山菜や木の実といったものたちも、たちまち食材へと変えてしまった。
ワラビやゼンマイ、栃の実やどんぐりなどを食材に変える力を持つ、土器による煮炊きという技術の発明は、人類の食生活を劇的に豊かに変えていったはずである。
そんな背景を思い描けば、土器という魔法のような存在に、呪術的な装飾を丹念に施した縄文人たちの気持ちも見えてくるような気がしている。
縄文人は、およそ1万年もの長い時間を、何の進歩もないまま過ごしていたかのような錯覚を抱く人もいるかもしれないけれども、そんな我々の生活には、縄文人が切り拓いた智慧と技術が、それと気づかないうちにちりばめられているのである。
1万年かけて食べられるものと食べられないものとをより分けてきた縄文人の功績は、ジャンボジェットを空に飛ばすことと同じくらいに大きいと思われる。
縄文人たちは日常の生活の中、果敢に可食と毒の境界に挑戦し、常に生と死の問題と向き合って生きてきた。
自然環境や季節の移り変わりを研究し、食べ方や保存の方法に工夫を凝らし、醗酵と腐敗の姿を観察し、あらゆる現象をゼロの段階から紐解いていかなければならなかった。
そんな縄文人たちの観察と挑戦を、その後裔である現代人が、進歩がなかった時代として一蹴することなど畏れ多いと思われる。
たとえ現代人が宇宙に飛び出すことが出来るようになったと言っても、過去の縄文人たちの知識獲得の過程を、嘲笑うことなど誰が出来るというのだろう。
そのように考えるにつけ、原始的な時代というものは、現代よりも遥かに英雄的な時代であったかのように思えてくるのである。
長野市は、キノコの栽培・出荷メーカーの大手である、ホクトという企業のお膝元である
余談ではあるが、地元のサッカーチーム長野パルセイロのユニフォームを見ていると、ホクトのロゴが、HOKUTOではなくHOKTO表記となっていることが微妙に気になってしまう。
マツダがMAZDA表記とした理由の一つに、ゾロアスター教の光の神・アフラマズダに響きを似せているという逸話があるように、HOKTOにもそんな逸話はないのだろうかなんて考えてしまう。
そんなわけで、スーパーの食品売り場に行けば、だいたいの一般的なキノコは何の苦もなく手に入ってしまうようだ。
マイタケ、シイタケ、ナメコ、ヒラタケ、エリンギ、キクラゲ、エノキタケ、ブナシメジ、マッシュルーム、ホンシメジ、タモギタケ、ハナビラタケ、アワビタケ、…。
エノキタケなどは、もやし状の白いエノキがあったと思えば、隣には茶色の原種エノキが並んでいたり、根元の円盤状の部分だけが切られて別に売られていたりする。
このエノキタケの円盤状に密集した石突き(根元)は、焼いて「エノキタケのステーキ」などと呼ばれているのだ。
瓶なめたけに使われているエノキタケも、柿の木エノキタケというこだわりの品種だったりして、エノキタケの世界は、独特の奥の深い広がりを持っている。
柿の木エノキタケは山茶茸とも呼ばれ、もやし状の白いエノキタケに、原種エノキタケを交配させた野性味の強いエノキタケのことである。
エノキタケについて並々ならぬこだわりが窺える信州であるが、それもそのはず、信州とエノキタケはとても深いゆかりを持っていた。
エノキタケの瓶栽培を確立した長谷川五作は、長野市松代町の人であり、エノキタケの佃煮を「なめたけ」として販売した小林崇章は、千曲市戸倉の人であった。
つまり、瓶なめたけの発祥そのものが、信州だったわけである。
今ではさまざまに工夫された瓶なめたけが販売されていて、わさびの産地・安曇野で売られていた、わさびなめたけがちょっとしたお気に入りである。
何のキノコが入っているかは特定できないものの、上田市塩田平の奥にある別所温泉には、七苦離煮、あるいは山海雑魚煮という名物があって、これはキノコの土臭さが癖になる一品だ。
また、中野市の物産館オランチェでは、コロナ禍の前には、キノコ汁が無料で振る舞われていたりしていて、ここでは、キノコがひとつのコミュニケーションツールのようにも機能していたように思う。
キノコメーカーとして全国区のホクトが長野市に所在していることで、信州、とりわけ北信のスーパーにおけるキノコ類の売り場面積は、他県の三倍はあるように見える。
行けども行けども、壁一面、キノコのコーナーなのかと呆然としていると、目の前の島の陳列台にもキノコが山積みになっていて驚いた。
いろいろな土地に暮らしていると、土地柄によって、売り場面積があからさまに広いジャンルの商品が、地域ごとに存在していて、それがまた面白く感じている。
新しい土地に行くたびに、その地域の人たちが情熱を傾けているものを発見しようと、店舗の陳列スペースの広さなどを見るのが、ちょっとした癖になってしまっている。
山梨県・国中地域のスーパーは、行けども行けどもフルーツの陳列棚で、その店舗では、野菜のコーナーよりもあからさまに広い面積をフルーツ類が占めていた。
秋田県の県北地域の酒類の売り場面積もなかなかに広く、いとくの酒類コーナーは、コンビニ1店舗分くらいのフロア面積があったんじゃなかったかと記憶している。
群馬県・高崎市周辺は、さすがは自家用車保有率ナンバーワン、いにしえの車持氏の国、頭文字D群馬プライドの聖地である。
書店のクルマ雑誌・自動車情報誌の売り場面積が、抜群に広かった。
それほど広い自動車情報誌のコーナーであったが、その隣のスペースには、クルマ雑誌とは別枠で、バイク雑誌のコーナーが広がっていたから、さすがである。
小県郡(青木村 長和町)や上伊那郡(飯島町 伊那市高遠)あたりの道の駅の、キノコの季節の売り場の賑わいはまた格別である。
マツタケ山も豊富に抱える信州であるから、おいそれとは手が出せないような値段の、立派な姿のマツタケが店頭の主役を務めて並んでいる。
時季さえ間違えずに道の駅に行くことが出来れば、図鑑で見ていたようなマニアックなキノコにも普通に巡り合えたりするので、それだけでも心が躍る。
マツタケ、コウタケ(香茸)、サクラシメジ(赤キノコ)、マイタケ、クロカワ(牛額)、シモフリシメジ(銀茸)、ムキタケ、アミタケ、ショウゲンジ(虚無僧)、笠の開いた天然ナメコ、ナラタケ、クリタケ、クリフウセンタケ、ハナイグチ(時候坊)、タマゴタケ、ウラベニホテイシメジ、…。
キノコ図鑑では香りを試すことが出来なくて残念に思っていたキノコが出回っていて、その香りを吸い込めたりするとテンションが爆上がりしてしまう。
余談だけれども、上田市のあたりでは毒キノコのベニテングダケを塩蔵にして食べる習慣があったそうだが、さすがに廃れてしまったようだ。
真田の里では、真田忍者の非常食・救荒食、あるいは敵陣を攪乱するための食材として、ベニテングタケの研究が続けられていたものであろうかと想像が膨らんでしまう。
上田市の書店でキノコ図鑑を手に取って立ち読みしたら、ベニテングダケのページに折り目が付いていたらしく、一発でそこが開いたということがあったけれども、そのぐらい興味を持たれているキノコではあるらしい。
一時期、リスがベニテングダケを食べるという発見が、新聞やメディアにおいて割りと大々的に取り上げられていたことから、信州人は潜在的にベニテングタケへの興味が高いようだ。
リスだけではなく、シカもベニテングダケを食べるというから、案外、時季によって食べられる瞬間というものが存在するキノコなのかもしれない。
秋のきのこは道の駅で豊富に見かける東信地区であるけれども、夏きのこについてはあまり熱心ではないのか、見かけることが少ないように思う。
単純に、自分が歩き回っている時季や時間帯が悪いのかもしれないけれども、それでも、秋きのこならば、時季や時間帯をあまり意識せずとも出会える機会が多いのに比べて、夏きのこはやはり出会える機会が少ないと言える。
そんな東信地区ではあるけれども、実は裏技があって、山梨県まで南下して道の駅南きよさとまで出向いて行けば、豊富な夏きのこに出会えてしまうのだ。
清里の道の駅は、秋にはシモフリシメジやクロカワにもお目にかかることの出来る道の駅であるが、夏となれば、タマゴタケ、チチタケ、アカヤマドリ、ヤマドリタケモドキ、アメリカウラベニイロガワリなどのきのこが、並べられている。
あとでわかったことではあるが、信州で、夏きのこにお目にかかろうと思ったら、どうやら東信地区ではなくて、北信地区の信州新町の道の駅が品揃えがよいようである。
さて、なぜ今回の項目を、キノコだけではなく菌食としたかというと、マコモタケを取り上げたかったからである。
長野市は豊野町のあたりの休耕田に盛んに作付けされているマコモタケには、ひときわ強い感慨がある。
信州と縄文の親和性が感じられる食材だからである。
知ってから見ればなんのことはないのだが、休耕田を用いてマコモを育てている圃場は、めちゃめちゃ背の高いイネを伸ばし放題にしているような印象で、とても奇妙な光景である。
次第に根の部分が黒ずんでくれば、荒れ放題にしすぎて周りの田畠にも影響が及ぶのではないかと心配になるほど、ある種、異様な光景でもある。
実際には、黒ずみの原因である黒穂菌を付けることも繁殖させることも、すべて管理して行っているそうであるから、荒れ放題に見える景色はすべて予定調和の中にある。
そのマコモの新芽に当たる部分が、マコモタケであるが、黒穂菌が寄生して肥大したものを食用にする。
黒穂菌は、キノコやカビの仲間である真菌に分類される微生物なので、マコモという植物からすれば、真菌に寄生・感染された状態ということになる。
マコモという植物自体は、日本の水辺に普通に自生している、ごく一般的なイネ科の植物である。
自生しているというところが実は非常に重要で、稲の伝来よりも古い時代から縄文人はこれを活用していたという。
縄文時代遺跡から出土した土器にマコモの種子が付着していたことから、マコモは縄文の主食であったという説もある。
ワイルドライスという別名も与えられているようだ。
出雲大社の注連縄がマコモで作られていることや、マコモ神事が伝わることなど、出雲大社には、稲の伝来以前の文化的伝統が息づいているようにも見える。
稲の伝播に抗う縄文の意地が、出雲大社に残されているのかもしれないと考えて、蝦夷の土地・東北で生まれ育った人間は、ちょっとした親近感を抱いてしまう。
黒穂菌の胞子が出て真っ黒に染まったマコモタケから取得されるのがマコモズミで、お歯黒(鉄漿)の顔料となる。
マコモの繊維を編んで作られるのがコモムシロであり、薦(こも)被りという言葉は貧民のことを指していた時代もあるそうだ。
虚無僧の由来が薦(こも)僧という説もあり、マコモという植物は、日本のアンダーグラウンドな世界で重要な役割を担っていたと言える。
歯ごたえを愉しみたい食材なので、きんぴらのように炒め煮にして食べるのが、個人的に一番好きなマコモタケの食べ方である。